漢文研究 唐・杜甫 サイト
その時東都奪還に、反乱軍ではなく、官軍、ウィグル援軍に略奪、凌辱された際の悲劇を採りあげた詩がある。戎cの「苦哉行」は五首連作である。寶應元年(762年)、史朝羲を破り洛陽を回復した際、反乱軍の地域であるとして官軍とウィグル援軍・回コツ援軍が共に暴行・凌辱・略奪を行った。
苦哉行五首其一
〈寳應中、滑州洛陽に過るし後、王季友に同じて作る。〉その一
彼鼠侵我厨、縱貍授粱肉。
彼の鼠 我が厨を侵し、縱貍 粱肉を授る。
鼠雖為君却、貍食自須足。
鼠 為君に却けられると雖も、貍食すること自ら須らく足るべし。
冀雪大國恥、翻是大國辱。
大國の恥を雪がんこと冀うも、翻て是れ大國の辱たり。
羶腥逼綺羅、専瓦雜珠玉。
羶腥 綺羅に逼り、専瓦 珠玉に雜わる。
登樓非騁望、目笑是心哭。
樓に登るは騁望に非ず、目笑すは是れ心哭するなり。
何意天樂中、至今奏胡曲。
何の意ありてか、天樂の中、今に至るも、胡曲を奏する。
史朝羲を鼠に、回コツを狸に喩え、鼠は朝廷によって退けられたか狸は馳走にありついている、大国の恥を雪ぐためとして反乱軍は追い出せたが、援軍に頼んだはずの回コツ、ウィグル援軍には略奪をほしいままにさせてしまった。これは大国にとって、恥の上塗りであるというのはこの詩の前半の意味である。
このことは、房カンや杜甫が5年前に朝廷で、粛宗、賀蘭進明、第五gらの安史の乱の制圧の詩からをめぐっての争点の一つであった。
安禄山の本拠地范陽と長安洛陽の地点間に介在する河南、河北地力、顔真卿が抵抗した平原郡もこれに含まれ、この地域の戦略的重要性について、「唐朝中央は、目前の苦境に心をうばわれ、あるいは、官僚相互のおろかな内訌から、この価値をただしくとらえることができず、しばしば作戦の失敗をくりかえした。
金帛、女子とひきかえに、回?の人援を仰いだのは、まさに、この失策をおぎなうためにとった残忍な手段であった。唐朝の失策か、5年前の略奪を許す恚宗の政策を生み出したといえるのである。戎cの史は朝廷の政策の直接の被害者である女性を描くことによって、粛宗以来の朝廷の政策を暗に批判したものである。
房?や杜甫のいう諸王か連合して賊軍を包囲し孤立させるというもの。諸王が連合して反乱軍を包囲し、孤立させる『諸王分鎮策』を唱え、賀蘭進明・第五gらは粛宗単勝利の方策を掲げ対立した。
大局では略奪、凌辱等を起こさない作戦ではあるが、はたして、多くの局地戦で、大敗していた757年の段階で、『諸王分鎮策』が正解であったかどうか、太平に、腑抜け状態であった、王朝軍は三十万の反乱軍に百万の王朝軍が負けているのである。
長安の回復を急ぐあまり、粛宗が回?に財物と女性を略奪凌辱収奪を許したので757年長安奪還の時は、廣平王李淑によって略奪は阻止されたか、その代わりに「願至東京乃如約」(願わくば東京に至らば、乃ち約の如くせよ)と述べ、洛陽掠奪の許可を与えてしまう。ただ、その後洛陽が奪回された時には、洛陽の父老が回?に羅錦萬匹を贈り、略奪を免れた。しかし、洛陽は乾元元年(759)すぐに史忠明に奪い返されてしまい、寶應元年(862)、洛陽が史朝羲から奪還された時、ついに回?の酒仙軽侮もあり略奪か起きてしまった。
全唐文 杜甫 総括
唐に着手金を支払う余裕がなく、肅宗は仕方なく回?に財物と女性を略奪してもよいという取り決めで援軍を承諾した。このことは、反乱軍の支配地を回復すれば、住民にとって、同時に、凌辱、略奪、収奪の始まりを覚悟しなければいけないことであった。しかし、反乱軍との戦いに住民としては、悪貨によるインフレに加え、回復、解放が悪夢を呼ぶのであるから、どちらの軍に味方したくない状況であった。こうしたこともあって、廣平王李俶、(後の代宗)により長安回復後の略奪は是が非でも阻止しなくてはならないことであったが、その代わりに、「願至東京乃如約(願はくは東京【洛陽】に至らば乃ち約のごとくせよ)」ということを、黙認せざるを得なかったことが、洛陽の真の回復が史朝羲を破る、762年まで足掛け八年もかかった要因である。
杜甫房?が、粛宗、賀蘭進明、第五gらと反目した大きな問題点の一つである。
〔ただ、758年、洛陽が奪回された時には、洛陽の父老が回?に羅錦萬匹を贈り、略奪を免れたが、759年史朝義に奪い返され、762年に奪還した。〕
房?は諸王か連合して賊軍を包囲し孤立させるという諸王が連合して反乱軍を包囲し、孤立させる。諸王分鎮策を唱え、賀蘭進明・第五gらは粛宗単勝利の方策を掲げ対立した。
粛宗は後者の政策を採用した。粛宗の周りには、利益供与、機体のグループ、張皇后、李輔國等の宦官と政策的バックボーンとしての賀蘭進明、第五gらしかいなかったのである。
房?の経済政策は民衆への直面の負担、奪還後の略奪を回避する方向であったのに対し、賀蘭進明・第五gらは晴極的攻勢を目指したため増脱・貨幣改鋳・塩の専売制、江南の年貢・租庸調の現金化を実施し、民衆の生活が疲弊しても、ひたすら早期に奪還することを政策の柱とした。