杜詩詳注 巻六 :仇兆鰲注  杜少陵集 全二十五卷 については仇兆鰲「杜詩詳注」を基本テキストとして編纂されているのでこの杜詩詳注を参考にされたい。
  
  
  
    
      
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 | 杜詩詳注 仇兆鰲訳注 | 
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              |  | 巻九 | 巻一〇 | 巻一一 | 巻一二 | 巻一三 | 巻一四 |  
              | 巻一五 | 巻一六 | 巻一七 | 巻一八 | 巻一九 | 巻二〇 | 巻二一 |  
              | 巻二二 | 巻二三 | 巻二四 | 巻二五 | 
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  杜詩詳注 巻六 
  
  
    
      
        |  | 07 杜詩詳注と杜甫全詩訳注 巻七《杜詩詳注》唐・杜甫著 清・仇兆鰲注 中華書局出版
 《杜甫全詩訳注》下定正弘・松原明編 講談社学術出版
 《杜少陵詩集》 鈴木虎雄譯解    國民文庫刊行會
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  杜詩編年整理01:48歳 三吏三別 官を辞す 
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  唐・大明宮
  

  唐・皇城とその付近
  
  
  
  
  
  
  杜詩詳注(二)・杜少陵集 巻六作時(西暦)杜詩詳注(二)杜少陵集〔一〕
  巻ID          詩題                                                   編年    杜詩詳注(二)   杜少陵集        
  106-01  宣政殿退朝?出左掖(卷六(二)四三五)       758年          435           511
  
  宣政殿は東内に属し、含元殿の後(北)に在る。左技とは左(東)側の小垣門をいう、作者は時に左拾遺の官にあり、門下省に属する。門下省は東内の東に在るので左垣門よりでるのである。宜政殿の参朝から退いて、夕方に左垣門を出て門下省の方へかえろうとしたときの作。
  
  
 
  
  
  宣政殿退朝晩出左掖(掖門在兩旁如人之臂掖) 杜甫
   天門日射黄金榜,春殿晴?赤羽旗。
   宮草微微承委佩,鑪煙細細駐游絲。
   雲近蓬?常好色,雪殘?鵲亦多時。
   侍臣緩?歸青瑣,退食從容出?遲。
  
門下省のある宣正殿から退庁して晩方、左の旁門から退出する。(正門わきの旁門には両の傍らに肩と腕を守るかのように立っている)
  宮殿の門は夕日のひかりがあたって、黄金の額縁のようにきれいだ、春の御殿の庭では朱雀を描いた旗が晴れてはいるが夕暮れにさしかかり、薄暗くにおうようである。
  このときわたしが玉佩をひきずって来ると庭の草は幽静な緑色に変わっている、部屋内から、庭にまで香の煙を漂わせる。そして、香気、佳気を感じさせてほそぼそとのぼっている。
  このあたりに浮んでいる夕霞は蓬莱宮に近いからいつも五色の彩をしているし、?鵲観かとおもえる建物にはずいぶんながく雪が残っている。
  かくしてわたしはゆっくりと歩いて門下省青瑣門の方へ帰るのだが、わたしの詰め所へさがるには、今日もいつものように庭景色を楽しむため、ゆったりとして時刻おくれて退出するのである。
  
  
  
  
  
  206-02  紫宸殿退朝口號(卷六(二)四三六)758年436 513
  
  
  紫宸殿も東内に属する。南より北へ順次に含元殿・宜政殿・紫辰殿がある。宜政は前殿にして紫辰は便殿である。口号とは口ずから吟ずること。此の詩は紫辰殿へ朝して、とき口ずさんだ作である。○便殿 貴人の休息のために設けた御殿のこと。
  
  
 
  
   
  
  
  
  
  
  306-03 春宿左省(卷六(二)四三八)758年438 525
  
  左省は東省、東内、即ち門下省である。春、門下省にとまり番をした時に作る。
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  406-04  晩出左掖(卷六(二)四四○)758年440 526
  左掖は東内の東側垣門のこと、前に見える。此の詩は蓋し或る日の夕がたこの門より出て自己の廨舎に帰ろうとしたことをいう。
  
  
 
  
   晩出左掖
  
  
  
  晩出左掖
  晝刻傳呼淺,春旗簇仗齊。退朝花底散,歸院柳邊迷。
  樓雪融城濕,宮雲去殿低。避人焚諫草,騎馬欲?棲。
  
夕暮れて、門下省のわきのくぐり門を出る。
  昼の時刻が知らされ、宮衛の点呼まわり番の声も近いものに聞こえる程度の声である。春用の簇仗の羽旗を一斉に整列して居る。
  そうして、朝廷(紫宸殿)より退出してくると花ビラが、散り落ちて庭中に敷き詰められている、門下省の書院に帰ろうとして歩くと柳樹の緑が濃くなってあたりの景色を変えていて迷ってしまう。
  南に向いて歩いていくと宮楼の雪はとけて城壁がぬれている。低く垂れこんでいた雲が去った後、御殿は低くなったかとおもわれる。
  人をさけ、みられないような場所で諌申用の草稿文をやきすてる、そして執務室の後片付けをして、馬に騎って官舎に向おうとするとすでに鶏がねぐらにつこうとする夕闇がせまっている。
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  506-05  題省中院壁(卷六(二)四四一)758年441 527
  
  
 
  
   
  
  
  
  題省中院壁
  掖垣竹?梧十尋,洞門對霤常陰陰。
  落花游絲白日靜,鳴鳩乳燕青春深。
  腐儒衰?謬通籍,退食遲回違寸心。
  袞職曾無一字補,許身愧比雙南金。
  (省中の院壁に題す)
  掖垣【えきえん】の竹?【ちくひ】十尋【じゅうじん】、洞門 対霤【たいりゅう】常に陰陰。
  落花 遊糸 白日静かに、鳴鳩【めいきゅう】乳燕【にゅうえん】青春深し。
  腐儒【ふじゅ】衰晩【すいばん】謬【あやま】って籍を通ず、退食【たいしょく】遅廻【ちかい】寸心【すんしん】違【たご】う。
  袞職【こんしょく】曾て一字の補【おぎない】無し、身を許す愧【は】ずらくは双南【そうなん】金に比せしこと。
  
宮廷側の垣壁の編竹の垣根に十尋の高い梧桐が植えてある、その梧桐は、宣政殿を挟んで門下省、中書省が連って洞門をなし、雨の落ちる方向に向いている処なのでいつも影になっていて暗い。
  春盛んな時、さすがに花が散り落ち、かげろうが燃えて真昼の日の光が静かに射しかける、鳩が鳴き、燕が子をかえすなど春の真っ盛りである。
  このときくされ儒者たる自分は晩年で衰えかけているのに、まちがって仕官ができたのであり、役所のひけ時にぐずぐずして平生の本志は思うことのかなわないものである。
  左拾遺という天子をお諌め申す役でありながらまだ一字として補いたてまつったことがない、これでは以前我と我が身に許して自己を南金の如き貴重なものに比べたことをはずかしくおもう。
  
  
  
  
  606-06  送賈閣老出汝州(卷六(二)四四三)758年443 529
  
  
 
  
  
   賈至(かし) 718年〜772年、安史の乱には、玄宗に従って、蜀に避れる。時に中書舎人であった。閣老とは舎人の牛深きものをいう尊称とし、或は門下省と呼びあう場合の称号とする、賈至をさしていうものである。汝州は河南省南陽府に属する。賈至は河南洛陽の人である。此の詩は中書舎人である貿至が長安から河南の汝州へ刺史として出かけるのを送るために作る。
  
  賈至(かし) 718年〜772年、安史の乱には、玄宗に従って、蜀に避れる。時に中書舎人であった。閣老とは舎人の牛深きものをいう尊称とし、或は門下省と呼びあう場合の称号とする、賈至をさしていうものである。汝州は河南省南陽府に属する。賈至は河南洛陽の人である。此の詩は中書舎人である貿至が長安から河南の汝州へ刺史として出かけるのを送るために作る。
  
  送賈閣老出汝州
  西掖梧桐樹,空留一院陰。艱難歸故裡,去住損春心。
  宮殿青門隔,雲山紫邏深。人生五馬貴,莫受二毛侵。
  
中書省の垣門のそばの梧桐の樹。あの樹は君が居なくなってはいたずらに院内にわたる木陰をとどめておるばかりである。
  君はこの世事の難儀なときに故郷の方へとかえり、いってしまう君も、とどまっておる自分も、ともに慶びの春の心を冷めてしまって傷むこころになるのである。
  君が行くところはこの都の宮殿の東はるか青門からへだたったところであり、紫邏の雲山は奥深く遠いところである。
  あなたは誰にとってもその人生において五馬を用意されるほどの官となる貴い位置なのである。髪の黒いうちにやっておくもので白髪なんぞに侵されるということがあってはならない。
  
  
  
  
  
  
  706-07  送翰林張司馬(一云學士)南海勒碑(卷六(二)四四四)758年444 531
  
  
 
  
  翰林は翰林院、翰林には司馬の官はない。張司馬については詳でないが司馬職の前の職が翰林院であったのであろう。南海は広東地方、勤碑は石碑に文字をはりつけること。
  碑文は時の宰相の誰かがつくったもので杜甫ではない。司馬が南海の地へ碑文を彫り刻むために往くのを送るものである。
  
  
  送翰林張司馬南海勒碑
  冠冕通南極,文章落上臺。詔從三殿去,碑到百蠻開。
  野館?花發,春帆細雨來。不知滄海上,天遣幾時回?
  
  
 
  
  
  
  
  
  
  806-08  曲江陪鄭八丈南史飲(卷六(二)四四五)758年445 532
  
  
 
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  906-09
曲江二首其一(卷六(二)頁四四六)758年446 534
  1006-10
曲江二首其二(卷六(二)頁四四七)758年447
  
  
 
  
   
  
  至徳三載は二月に乾元と改元され、載から年にかわる。
  杜甫は左拾位ではあるが朝廷においての疎外感はますます大きくなっていったようだ。玄宗上皇は興慶宮から大極殿の奥に移され、旧臣との接触を断たれた。羌村から鳳翔に帰るまでの紀行文はあるものの鳳翔から長安に入城に関しての詩がない。徹底的な疎外を受けていたのだろうか。この曲江二首を詠うまで以下の十詩があるだけだ。杜甫のこころの動きがよくわかるのでこの時期はすべて掲載する。
   この曲江の詩から刹那感が出始める。
  曲江二首 其一
  一片花飛減却春、風飄万点正愁人。且看欲尽花経眼、莫厭傷多酒入唇。
  江上小堂巣翡翠、苑辺高塚臥麒麟。細推物理須行楽、何用浮名絆此身。
  
  
 
  
  
  曲江二首 其二
  朝回日日典春衣、毎日江頭尽酔帰。酒債尋常行処有、人生七十古来稀。
  穿花?蝶深深見、点水蜻?款款飛。伝語風光共流転、暫時相賞莫相違。
  
  
 
  
  
  
  
  1106-11 
曲江對酒(卷六(二)四四九)758年449 537
  
  
 
  
  曲江對酒
  苑外江頭坐不歸,水精宮殿轉霏微。桃花細逐楊花落,?鳥時兼白鳥飛。
  縱飲久判人共棄,懶朝真與世相違。吏情更覺滄洲遠,老大悲傷未拂衣。
  春景色に誘われ、わたしはこの芙蓉苑の外、曲江の池畔で官舎に帰らないままにすわりこんであたりをながめる、水の妖精が生まれ出て水の宮殿がその光を輝かせ、霧のように飛散する水珠も輝く。
  それから桃の花は微細に落ちち、やなぎの花、柳絮の散るあとを追いかけて落ちてまた落ちる、黄色の鳥たちは時を同じにして一斉に白色の鳥たちと飛びたつ。
  勝手きままにすきなだけ酒を呑んで長いあいだ自暴自棄になり人も相手をしてくれない、参朝することが億劫になってしまい、世間の人皆から見放されてしまっている、実際自分も世の人とは違背しているのである。
  官吏としての今の心持は、これまでよりももっと滄洲の仙境と隔たりができた様な気がするばかりで、こんなに年を取ってからでは衣を払って仙境に向って去って行けないことを傷み悲しむだけなのである。
  
  
  
 
  
  
  
  1206-12 曲江對(晉作?)雨(卷六(二)四五○)758年450 539
  
  
 
  
  曲江對雨
  城上春雲覆苑牆,江亭?色靜年芳。林花著雨燕支濕,水?牽風翠帶長。
  龍武新軍深駐輦,芙蓉別殿謾焚香。何時詔此金錢會,暫醉佳人錦瑟旁?
  
曲江池の辺で雨に逢う
  城楼の上に春の雲が芙蓉苑の土塀に覆いかぶさっている、わたしが座ってやすんでいる曲江池ほとりの四阿には夕暮れかかって閑静な中、花や草のかおりがただよう。
  芙蓉苑の林の花は雨にあたり「えんじ」の色がうるおい濃くなる、水の草の「あさざ」は風に引っ張られて翠色の帯のように長くのびている。
  このとき玄宗上皇は新に置かれた竜武軍に衛れて大極殿の奥にふかく輦をとどめられており、それなのにこの芙蓉苑の別殿離宮では昔と同じようにただみだりに香を焚いてお待ちしている。
  上巳節には前代の玄宗の時代にはさかんなものであったが、いつ今の粛宗から詔が仰せられて、金銭を拾わせるというような御会を催され、教坊の美人のかなでる錦瑟のかたわらで、しばし酔うことができることであろうか。
  
   
  
  
  
  
  
  1306-13  奉答岑參補闕見贈(卷六(二)四五二)758年452 541
  
  
 
  
  奉答岑參補闕見贈
  窈窕清禁闥,罷朝歸不同。君隨丞相後,我往日華東。
  冉冉柳絲碧,娟娟花蕊紅。故人有佳句,獨贈白頭翁。
  
岑参補闕が贈ってくれた詩を見た詩に答え奉る
  頭がよく顔も美しいしとやかな美人は清らかに宮中の中にいる。何時も朝廷からは同じように帰るとは限らない。
  岑参君は今後郭子儀宰相に後にしたがっていくとよい、わたしは日が昇り輝いている東の方に行くみたいだ、
  今や、しだれ柳の青緑の小枝はやわらかに垂れ下がり、蝶などが美しく飛び、花芯は紅色である。
  友達である君は、良い詩をたくさん作っている、その詩の一つになるものといえる詩を白髪頭のこの老人に贈ってくれる。
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  146-13.1 寄左省杜拾遺(卷六(二)四五三)岑參詩453
  
  
 
  
  寄左省杜拾遺
  聯歩趨丹陛、分曹限紫微。曉隨天仗入、暮惹御香歸。
  白髮悲花落、青雲羨鳥飛。聖朝無闕事、自覺諫書稀。
  
門下省左省の杜甫左十遺に寄せる。
  門下省の官僚が列をそろえて丹庭から、丹の階に向かう、部局の限られたものだけが紫微殿に入る。
  朝の参事には天子の行列を護衛する兵にしたがってはいる。夕暮れてから宮中で焚かれる香の香りと一緒に紫微殿から帰る。
  この白髪頭のわたしは春花が咲き誇っているのに散り落ちていくのを見ると悲しくなる。春霞の大空に鳥は飛んでいるのをうらやましく思う。
  この天子の治められる朝廷においては政治上の欠陥というものが全くない。わたしは職務である天子をいさめる書をすることなど稀なことでしかないのを感じている。
   
  
  
  
  
  1506-14  奉贈王中允維(卷六(二)四五四)758年454 542
  
  
 
  
  
  奉贈王中允維
  菩提寺禁、裴廸来相看、説逆賊等凝碧池上作音楽、
  供奉人等擧聲、便一時涙下、私成口読、誦示裴廸。
  萬戸傷心生野煙、百官何日再朝天。
  秋槐葉落空宮裏、凝碧池頭奏管絃。
  
菩提寺の拘禁所に、裴迪が面会にやって来て、『逆賊らが凝碧池の畔で音曲を楽しんだが、かつての梨園の弟子たちが泣きだすと、みなどっと涙を流した』と話してくれた。ひそかに即興吟を作り、口ずさんで裴迪に示した。
  長安の町中が人家は、廃墟と化して街中というに野のかすみがたちこめ、見るものの心を傷しめる。思いねがうは、文武百官の再び天子に拝謁することである、いつの日であろうか。
  秋の槐の葵は、主のない宮殿に散り落ちているだけ、叛乱軍のやからは、洛陽宮の凝碧池の辺でにあわない音楽を奏し、酒宴をするという。
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  1606-15  送許八拾遺歸江寧覲省甫昔時嘗客遊此縣於許生處乞瓦棺寺維摩圖樣志諸篇末(卷六(二)四五五)758年455 544
  
  
 
  
   
  
  
  
  
  1706-16  因許八奉寄江寧旻上人(卷六(二)四五八)758年458 547
  
  
 
  
   
  
  
  
  
  
  
  1806-17  題李尊師松樹障子歌(卷六(二)四五九)758年459 549
  
  
  
  老夫清晨梳白頭,玄都道士來相訪。握發呼兒延入?,手提新畫青松障。」
  障子松林靜杳冥,憑軒忽若無丹青。陰崖卻承霜雪幹,偃蓋反走?龍形。』
  老夫平生好奇古,對此興與精靈聚。已知仙客意相親,更覺良工心獨苦。
  松下丈人巾?同,偶坐似是商山翁。悵望聊歌紫芝曲,時危慘澹來悲風。』
  
自分はきょうのはれあがったあした、しらがあたまをとかしていたとき、玄都観の道士李尊師がたずねてこられた。
  大いそぎで髪をにぎりながら、こどもをよんで之を戸内へ招きいれた。尊師の手には新たにかかれたばかりの松の木を描かれた障子立をかかえている。』
  その障子屏風の描かれた松林はしずかにとおく暗くつらなって居て、軒端の欄干によって眺めると丹青の画が消えて実物ばかりがある様におもわれる。
  日陰のくらっぽいそばがけは霜雪をしのぐ松の幹をうけており、松の枝葉がかさなりあって笠のようであり、蛟や竜のようなさまを走らせている。』
  このわたしはふだん奇古なものを好むが、この画に向うと、自己の感興は忽ち画者の精神といっしょになってしまった。
  仙客というべき李尊師の御親切、心遣いはもとよりわかったが、之をかく時の画者がどんなにひとりで心を苦しめたかということに一層つよくこころに響いてくるのである。』
  松の木の下に老人たちが画いてあり、そのいでたちはどれも互に同じである。そこに対坐しているその老人たちはどうやら商山の老人であるようである。
  自分も憤然として南山の方をながめてちょっと四皓等が作ったと称する「紫芝曲」をうたうというと、この時にあたってもいまだに安泰ではなくしてものがなしく悲風が吹き来るのである。』
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  1906-18  得舍弟消息(卷六(二)四六一)758年461 552
  
  
 
  
  
  得舎弟消息
  風吹紫荊樹、色興春庭暮。花落辭故枝、風迴返無處。
  骨肉恩書重、漂泊難相遇。猶有涙成河、經天復東注。
  
風が庭前の紫荊樹を吹きかかっている、樹の色が春のさかりの庭の色をおなじようにしながら暮れてゆく。
  その花はもとの枝から辞し去るように私や親の元から去って、それが「叛乱」の風に吹きつけられ、もとの枝へかえろうとしてもかえるべき処さえない。
  漂泊の身の上で、このような叛乱という難儀のために互に出遭うことは難しい、だからこそ、この際の血を分けた兄弟の手紙はことに重んずべきものである。
  今もなお、わたしの涙が天の河にながれ出て、それが大空をわたっておまえの居る東の方へむけてそそぎつつあるのだ。
  
   
  
  
  
  
  2006-19  送李校書二十六韻(卷六(二)四六一)758年461 553
  
  
 
  
   
  逼側行贈畢四
  
  
  
  2106-20  逼側行贈畢四曜(卷六(二)四六六)758年466 559
  
  
 
  
   
  
  
  
  
  2206-21 贈畢四曜(卷六(二)四六九)758年469 563
  
  
 
  
  
  
   
  
  
  
  
  2306-22  題鄭十八著作丈(一作文)故居(卷六(二)四七○)758年470 564
  
  
 
  
  
  
   
  
  
  
  痩馬行
  
  
  
  2406-23  痩(《英華》作老,詩同)馬行(卷六(二)四七二) 758年472 568
  
  
 
  
  痩馬行
  東郊?馬使我傷,骨骼?兀如堵牆。絆之欲動轉欹側,此豈有意仍騰驤?
  細看六印帶官字,?道三軍遺路旁。皮幹?落雜泥滓,毛暗蕭條連雪霜。』
  去?奔波逐餘寇,??不慣不得將。士卒多騎??馬,惆悵恐是病乘?。
  當時?塊誤一蹶,委棄非汝能周防。見人慘澹若哀訴,失主錯莫無晶光。
  天寒遠放雁為伴,日暮不收烏啄瘡。誰家且養願終惠,更試明年春草長。』
  
長安の城の東の野原に痩せた馬がいて、之をみると自分はかなしくなる、この馬の骨組はでこぼこ浮きだし、側面からみると土塀が立っている様なのだ。
  これを縄でつなごうとしているのだが、動いてとしていよいよ體を直立しようとはしない、その様子では、この馬は痩せてしまって、以前のように躍り上がろうとする気持ちがまだあるのだろうか。
  仔細にみるとこの馬には官でおした焼き印が六箇所ばかりある、このあたりの人々のいうには官軍がみちばたにすてたのだそうだ。
  その皮は傷などの糜爛が剥げて落ちてそのままになっている、泥や汚い滓が混ざっており、毛の艶はきえうせてさびしく真っ白い色がつづいている状態だ。
  去年官軍は狂奔して安史軍の余党を逐いまわしたが、その士卒どもは千里の駿足にはのりなれぬからのることができなかったのだろう。
  彼等は多くおとなしく訓練されている宮中のおうまやの馬にのった。自分のいたましくおもうのは、そのときこの痩せ馬もおうまやの駿馬であったのだが、病気してほっておかれたのだろう。
  大事な戦いの当時、病気をしていて土塊のうえをとおるときちょっとしたことで蹴躓いたので棄てられたのだ、、その棄てられることというのは汝、この痩馬が防止し得る所ではなくいわば運命なのだ。
  今この馬は人を見てはものがなしそうにしてかなしみうったえるが如く、主人を失ってはさびしく眼の光もうせている。
  冬時の寒空に遠くへはなれて雁を伴侶となし、日が暮れても取り入れられず、烏がきて切り傷の処をつついている。
  誰かの家でこの馬をかりに飼養してくれるものはないだろうか、もしあるならばどうかそのめぐみを最後までつづけてもらいたいのだ。それができたら、明年春の若草の伸びたときに更にこの馬の力を試してみょうとおもうのだ。
   
  
  
  
  
  2506-24 
義鶻行(卷六(二)四七四)758年474 572
  
  
 義理ある鶻のことをよんだうたである。鶻は「あおだか」の類、「ぬくめどり」という猛鳥である。
  杜陵の住居に近い?水のほとりにおいて樵夫よりきいた話で、鶻が蒼鷹のために白蛇を殺し、子鷹を食った仇を討ったことを述べている。
  
  義理ある鶻のことをよんだうたである。鶻は「あおだか」の類、「ぬくめどり」という猛鳥である。
  杜陵の住居に近い?水のほとりにおいて樵夫よりきいた話で、鶻が蒼鷹のために白蛇を殺し、子鷹を食った仇を討ったことを述べている。
  陰崖有蒼鷹,養子K柏顛。白蛇登其?,?噬恣朝餐。』
  雄飛遠求食,雌者鳴辛酸。力強不可製,?口無半存。
  其父從西歸,翻身入長煙。斯須領健鶻,痛憤寄所宣。』
  #2
  鬥上捩孤影,咆哮來九天。修鱗?遠枝,巨??老拳。
  高空得??,短草辭蜿蜒。折尾能一掉,飽腸皆已穿。』
  #3
  生雖滅?雛,死亦垂千年。物情可報複,快意貴目前。
  茲實鷙鳥最,急難心炯然。功成失所往,用舍何其賢!』
  #4
  近經?水?,此事樵夫傳。飄蕭覺素發,凜欲沖儒冠。
  人生許與分,只在顧?間。聊為義鶻行,永激壯士肝。』
  
 
  
  
  
  
  
  2606-25  畫鶻行(卷六(二)四七七)758年477 576
  
  

  鶻鶴の画をみて感じた所をのべた詩である。758年乾元元年、なお朝廷にあって疎外感を持っていた時の作。
  
  
  
  
 畫鶻行 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 264
  畫鶻行 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 264
  
  
  
  
  2706-26  端午日賜衣(卷六(二)四七八)758年478 579
  
  
 左拾遺であったとき、宮中より衣をたまわったことをのべている。杜甫が子供のように喜んでいる。杜甫人生、全詩の中から唯一無二の作品である。
  この一年間、杜甫は、左拾位としての仕事はさせてもらえなかった。朝廷内において、だれからも相手にされない、公的な詩も残していない。この間の詩はこのブログではカテゴリー『左拾位での詩(11)』ということで検索できる。どこか疎外感、寂しさを感じさせる索引である。その中にあって、この作品は「端午日賜衣」異彩を放っている。この後、左遷されるのであり、そのことを全く感じさせない作品であり、哀れと刹那を感じずにはいられない作品である。
  
  左拾遺であったとき、宮中より衣をたまわったことをのべている。杜甫が子供のように喜んでいる。杜甫人生、全詩の中から唯一無二の作品である。
  この一年間、杜甫は、左拾位としての仕事はさせてもらえなかった。朝廷内において、だれからも相手にされない、公的な詩も残していない。この間の詩はこのブログではカテゴリー『左拾位での詩(11)』ということで検索できる。どこか疎外感、寂しさを感じさせる索引である。その中にあって、この作品は「端午日賜衣」異彩を放っている。この後、左遷されるのであり、そのことを全く感じさせない作品であり、哀れと刹那を感じずにはいられない作品である。
  
  
   端午日賜衣  杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 265
  端午日賜衣  杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 265
  
  
  
  
  
  唐・大明宮
  

  唐・皇城とその付近
  
  
   
  
  
  
  27  
酬孟雲卿
  
  
  
  
  2806-27  
酬孟雲卿(卷六(二)四七九)758年479 581
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  28 
至コ二載甫自京
  
   
  
  
  
  2906-28 
至コ二載甫自京金光門出間道歸鳳翔乾元初從左拾遺移華州掾與親故別因出此門有悲往事(卷六(二)四八○)758年480 582
  
  「人生七十 古来 稀なり」 −古稀−という言葉は、杜甫のこの句にもとづくが、このとき彼は、永くもない人生、せめて好きな酒を飲み、暮れゆく春を楽しもうと、けだるい無力感にその身を任せている。
  
  しかしながら、このような生活も、長くは続かなかった。それは、六月になって房?が?州の刺史として左遷され、それに関連して、房?と近い関係にあった人たちに対しても同じような処置がとられた。京兆少尹(長安の副知事)であった厳武は巴州(四川省重慶の巴県)刺史に左遷され、杜甫が叛乱軍の中にあるときに何かと援助してくれた大雲経寺の賛公は秦州(甘粛省天水市)に追放された。そうして、杜甫も最前線、華州の司功参軍に左遷されたのである。
  
  満一年の左拾遺であったが、羌村の家族のもとから長安に帰ってから、疎外されての数か月は、杜甫にとってつらいものであった。
  
  しかし、いざ長安を去るとなると、その心境は複雑であった。その思いは「至コ二載,甫自京金光門出間道歸鳳翔。乾元初,從左拾遺移華州掾,與親故別,因出此門,有悲往事。」(至徳二載 甫 京の金光門より野で 間道より鳳翔に帰す 乾元の初 左拾遺より華州の操に移され 親政と別る、因って此の門を出で 往事を悲しむ有り。)という長題の詩に詠われている。
  
  華州は、長安の東約三〇〇キロの所にある町で、その司功参軍とは、州の祭祀、学校、官吏の選挙などの管理を担当する、今日の地方の「教育長」とでもいうべき職であった。彼はその職にあって、華州の長官に、依然、?城を占拠している安史軍をいかにして絶滅するかについての方策を奉ったり、また、華州の推薦する進士を選ぶための試験問題を作成して、戦時下における租税・交通・農田・水利など諸問題について出題したりして、それなりに職務に励んでいる。しかしながら、中央政府から左遷されたわびしきは、片時も消えることはなかったであろう。ここからカテゴリーが『華州の司功参軍左遷』に変わる。
  杜甫『痩馬行』『收京三首其一、其二、其三』『喜聞官軍已臨賊寇 二十韻』(757年十月に洛陽を敗退した安慶緒は、この年になると相州(河南省安陽市)の?城(ぎょうじょう)に拠って兵六万を集め、周囲の七郡を支配する勢力に復活した。唐王朝は九月になると、朔方軍節度使郭子儀(かくしぎ)ら九節度使の軍を派遣して?城を包囲した。)李白『北上行』参照。 
  
   秋のはじめに杜甫は、杜観ひとりを洛陽にやったが、戦線が河北と河南の境にある相州に集中した冬になっても、杜観はもどってこなかった。杜甫の左遷先の華州は、洛陽と長安の中間であるが、敵は太行山脈を越え黄河を利用して攻め込むことが予想される地点である。敵が南下してくる長安洛陽のどちらも護、安史軍との前線基地にあたる。
  
   詩は、758年乾元元年六月の作。
  756年、至徳二載に自分は長安の金光門からでて、ぬけみちをとおって粛宗皇帝のおわした鳳翔の方へとおもむいた。758年、乾元の初年に自分は左拾遺の官から華州のした役へと転任させられ、親戚故旧らと別れ、それにつれてまたこの同じ金光門を出たので、まえのことをおもいだしてかなしみ、この詩をつくった。
  
  
  
  
 
  
  
  
  
  
  
  3006-29  寄高三十五・事(卷六(二)四八二)758年482 584
  
  
 
  
  太子少居事の官である高適に寄せた詩である。高適は至徳二載に揚州大都督府長史・准南節度使となって、永王燐を淮なんで破った功績があるにもかかわらず、、宦官の李輔国がしばしば高適を天子にあしざまにいったために太子少・事を授けられた。・事は東宮の三寺・十率府の政令を掌る、少・事は・事の副官で正四品上である。758年乾元元年の作。
  
  
  
 3106-30  贈高式顏(卷六(二)四八三)766年483 585
  
  
  
  
  3106-30  贈高式顏(卷六(二)四八三)766年483 585
  
   
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  3206-31  
題鄭縣亭子(卷六(二)四八四)758年484 587
  
  
 
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  3306-32  
望岳(卷六(二)四八五)758年485 589
  
  
 
  
   
  
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  3406-33  
早秋苦熱堆案相仍(卷六(二)四八七)758年487 590
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  3506-34
觀安西兵過赴關中待命二首 其一(卷六(二)頁四八八)758年488 591
  3606-35
觀安西兵過赴關中待命二首 其二(卷六(二)頁四八九)758年489
  
  
 
  
  
   
  
  
   
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  3706-36 
九日藍田崔氏莊(卷六(二)四九○)758年490 595
  
  
 
  
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  3806-37 
崔氏東山草堂(卷六(二)四九二)758年492 597
  
  
  
 
  
  
   
  06-37.5-特集 遣興 全20首ブログ
  
  
  
  杜甫作品《遣興》全20首訳注解説ブログ案内
  
 
  
  
  
  製作時、至徳二載。757年46歳
  @遣興
  驥子好男兒,前年學語時:問知人客姓,誦得老夫詩。
  世亂憐渠小,家貧仰母慈。鹿門攜不遂,雁足系難期。
  天地軍麾滿,山河戰角悲。儻歸免相失,見日敢辭遲。
  
遣興 杜甫 <242>遣興20首の@番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1175
  
  乾元元年758年
  A遣興三首 其一
  我今日夜憂,諸弟各異方。不知死與生,何況道路長。
  避寇一分散,饑寒永相望。豈無柴門歸?欲出畏虎狼。
  仰看雲中雁,禽鳥亦有行。
  
遣興三首其一 杜甫 <243>遣興20首のA番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1175
  
  B遣興三首 其二
  蓬生非無根,漂蕩隨高風。天寒落萬裡,不複歸本叢。
  客子念故宅,三年門巷空。悵望但烽火,戎車滿關東。
  生涯能幾何,常在羈旅中!
  
遣興三首其二 杜甫 <244>遣興20首のB番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1181
  
  C遣興三首 其三
  昔在洛陽時,親友相追攀。送客東郊道,遨遊宿南山。
  煙塵阻長河,樹羽成皋間。回首載酒地,豈無一日還?
  丈夫貴壯健,慘戚非朱顏。
  
遣興三首其三 杜甫 <245>遣興20首のC番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1184
  
  D遣興三首其一 759乾元二年秋在秦州作 
  下馬古戰場,四顧但茫然。風悲浮雲去,?葉墮我前。
  朽骨穴螻蟻,又為蔓草纏。故老行嘆息,今人尚開邊。
  漢虜互勝負,封疆不常全。安得廉頗將,三軍同晏眠?
  
遣興三首 其一 <226>杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1094 杜甫特集700- 329
  
  E遣興三首 其二
  高秋登塞山,南望馬邑州。降虜東?胡,壯健盡不留。
  穹廬莽牢落,上有行雲愁。老弱哭道路,願聞甲兵休。
  ?中事反覆,死人積如丘。諸將已茅土,載驅誰與謀?
  
遣興三首 其二 <227>杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1097 杜甫特集700- 330
  
  F遣興三首 其三
  豐年孰雲遲,甘澤不在早。耕田秋雨足,禾黍已映道。
  春苗九月交,顏色同日老。勸汝衡門士,忽悲尚枯槁。
  時來展才力,先後無醜好。但訝鹿皮翁,忘機對芳草。
  
遣興三首 其三 <228>杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1100 杜甫特集700- 331
  
  G遣興五首其一
  蟄龍三冬臥,老鶴萬裡心。昔時賢俊人,未遇猶視今。
  ?康不得死,孔明有知音。又如隴?松,用舍在所尋。
  大哉霜雪幹,?久為枯林。
  
遣興五首其一 杜甫 <235>遣興22首のG番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1154
  
  
  H遣興五首其二
  昔者?コ公,未曾入州府。襄陽耆舊間,處士節獨苦。
  豈無濟時策?終竟畏網罟。林茂鳥有歸,水深魚知聚。
  舉家隱鹿門,劉表焉得取。
  
遣興五首其二 杜甫 <236>遣興22首のH番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1157
  
  I遣興五首其三
  陶潛避俗翁,未必能達道。觀其著詩集,頗亦恨枯槁。
  達生豈是足?默識蓋不早。有子賢與愚,何其掛懷抱?
  
遣興五首其三 杜甫 <237>遣興22首のI番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1160
  
  J遣興五首其四
  賀公雅?語,在位常清狂。上疏乞骸骨,?冠歸故?。
  爽氣不可致,斯人今則亡。山陰一茅宇,江海日淒涼。
  
遣興五首其四 杜甫 <238>遣興22首のJ番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1163
  
  K遣興五首其五
  吾憐孟浩然,短褐即長夜。賦詩何必多,往往?鮑謝。
  清江空舊魚。春雨餘甘蔗。?望東南雲,令人幾悲?。
  
遣興五首其五 杜甫 <239>遣興22首のK番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1166
  
  L遣興二首其一   759乾元二年秋在秦州作
  天用莫如龍,有時系扶桑。頓轡海徒湧,神人身更長。
  性命苟不存,英雄徒自強。?聲勿複道,真宰意茫茫。
  
遣興二首其一 杜甫 <240>遣興22首のL番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1169
  
  M遣興二首其二
  地用莫如馬,無良複誰記?此日千裡鳴,追風可君意。
  君看渥窪種,態與駑駘異。不雜蹄?間,逍遙有能事。
  
遣興二首其二 杜甫 <241>遣興22首のM番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1172
  
  N遣興五首其一    N
  朔風飄胡雁,慘澹帶砂礫。長林何蕭蕭,秋草萋更碧。
  北裡富燻天,高樓夜吹笛。焉知南鄰客,九月猶??。
  
遣興五首其一 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ   N
  
  O遣興五首其二    O
  長陵?頭兒,出獵待明發。?弓金爪鏑,白馬蹴微雪。
  未知所馳逐,但見暮光滅。歸來懸兩狼,門?有旌節。
  
遣興五首其二  kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ  O
  
  P遣興五首其三    P
  漆有用而割,膏以明自煎;蘭摧白露下,桂折秋風前。
  府中羅舊尹,沙道故依然。赫赫蕭京兆,今為人所憐。
  
遣興五首其三 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ   P
  
  Q遣興五首其四    Q
  猛虎憑其威,往往遭急縛。雷吼徒咆哮,枝?已在?。
  忽看皮寢處,無複睛閃爍。人有甚於斯,足以勸元惡。
  
遣興五首其四 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ   Q
  
  R遣興五首其五    R
  朝逢富家葬,前後皆輝光。共指親戚大,?麻百夫行。
  送者各有死,不須羨其強。君看束縛去,亦得歸山岡。
  
遣興五首其五 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ   R
  
  S遣興
  干戈猶未定,弟妹各何之!拭?沾襟血,梳頭滿面絲。
  地卑荒野大,天遠暮江遲。衰疾那能久,應無見汝期。
  
760年遣興 杜甫 <251>遣興22首のS番 kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1202 
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  3906-38 遣興三首其一(卷七(二)頁五四六)758年546 599
  4006-39 遣興三首其二(卷七(二)頁五四七)758年547
  4106-40 遣興三首其三(卷七(二)頁五四八)758年548
  
 
  
   ◆   私は現在日ごと夜ごと心配している。というのは弟たち、それぞれがあちこちに行っている。
  
  ◆   私は現在日ごと夜ごと心配している。というのは弟たち、それぞれがあちこちに行っている。
  それだから、死んでいるのか生きているのかわからないのだ。何をしているやらどうしているのか彼らと道が遠く離れているのだ。
  
  安禄山の叛乱により残虐から避けていったん分散したのだ。寒さに加えて食べるものがなく飢えてしまったし、長らく会いたいものと望んでいた。
  
  どうしてこの貧しい家の門に帰ってくることが出来ないのか、叛乱軍の安禄山と史思明たちを畏れて出立して欲しいものである。
  
  仰ぎ見れば時も過ぎて雲の中に雁が飛んでいる、獰猛な鳥がまた我が物顔で行き来している。
  
  ◆   ヨモギが一面に生え茂って荒れ果てている所といっても根を張っていないということはない。さまよい、さすらうこと言うのは高士の風格に随っているのだ。
  極寒が万里の内に天から降りてくると、転蓬となって再びもとの一面の叢には帰ってくることはないのだ。
  
  旅人であれば故郷の家を思うものである。もう三年、私の家の門や門前の小道に家族が集うことはなく、むなしく淋しいものである。
  
  心をいためて思いやるのであるが戦争の烽火はやまないのである、指揮するのに使われる戦車は関中から東には満ち満ちているのだ。
  
  私の生涯は残りがそれほどあるわけではないのだ、それに何時も旅をしていて今も旅の真っ只中にいるのだ。
  
  ◆   少し前のころ、所用で洛陽にいた時のことである、互いのことを話して、その親友とは別れを惜しんだのだ。
  湖城の城郭の東郊外で旅に出る客孟雲卿をおくるのだが、気ままに遊び回って、ここの南にある嵩山の麓に宿したのだ。
  
  戦乱は続き、黄河の上下流域で叛乱軍に阻まれているし、王朝軍は長安洛陽を奪回したものの三国時代の古戦場であった成皋(?州)の間で休戦状態にある。
  
  戦乱は続き、黄河の上下流域で叛乱軍に阻まれているし、王朝軍は長安洛陽を奪回したものの三国時代の古戦場であった成皋(?州)の間で休戦状態にある。
  
  確実なことは壮健であることを貴しとすることであり、悼みに憂えることで顔を赤らめたりすることはない。
  
  
  
   
  
   
  
  
   
  
   
  
  
   
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  4206-41  獨立(卷六(二)四九五)758年495 602
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  4306-42 至日遣興奉寄北省舊閣老兩院故人二首其一(卷六(二)頁四九六)758年496 604
  4406-43 至日遣興奉寄北省舊閣老兩院故人二首其二(卷六(二)頁四九八)758年498 605
  
  
 
  
   
   
   
   
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  4506-44  路逢襄陽楊少府入城戲呈(一作戲題四韻附呈)楊四員外綰(卷六(二)四九九)758年499 607
  
  
 
  
  
   
  06-45  冬末以事之東都湖城東遇孟雲卿
  
  
  
  
  
  
  
  
  4606-45  冬末以事之東都(一本無此句)湖城東遇孟雲卿復歸劉宅宿宴飲散因為醉歌(卷六(二)五○○)758年500 609
  
  
 
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  4706-46  ブン郷姜七少府設鱠戲贈長歌(卷六(二)五○二)758年502 612
  
  
 
  
  
  
  ??姜七少府設鱠戲贈長歌
  
  
姜侯設膾當嚴冬,昨日今日皆天風。河凍未漁不易得,鑿冰恐侵河伯宮。
  ? 人受魚鮫人手,洗魚磨刀魚眼紅。無聲細下飛碎雪,有骨已?觜春 ? 。
  偏勸腹腴愧年少,軟炊香飯?老翁。落砧何曾白紙 ? ,放箸未覺金盤空。
  新歡便飽姜侯コ,清觴異味情?極。東歸貪路自覺難,欲別上馬身無力。
  可憐爲人好心事,於我見子真顏色。不恨我衰子貴時,悵望且爲今相憶。
   
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  4806-47  戲贈ブン郷秦少府短歌(卷六(二)五○四)758年504 616
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  4906-48  李?縣丈人胡馬行(卷六(二)五○六)758年506 618
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  5006-49  觀兵(卷六(二)五○七)758年507 621
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  5106-50 憶弟二首其一(卷六(二)頁五○八)759年508 622
  5206-51 憶弟二首其二(卷六(二)頁五○九)759年509 623
  
  
 
  
  
   
  
   
  
  
   
  
  
   
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  5306-52 得舍弟消息(卷六(二)五一○)759年510 624
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  5406-52.5 不歸
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  5406-53  贈衛八處士(卷六(二)五一二)(參用《中國文學欣賞全集》注釋)759年512 627
  
  
 
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
   
  
  
  
  
  
  
  
  5506-54 洗兵行(《杜臆》作行,舊作馬)(卷六(二)五一四) 758年514 630
  
  
 
  
   
  
  この詩の結句「淨洗甲兵長不用」(浄く甲兵【こうへい】を洗うて長く用いざるを得ん)とある「洗兵」の二句をとって題とする。
  天の河の水で武器をあらい去り、永久に用いない様にしたいという意味をのべた詩である。九節度の官軍が相州の?城に敗れたのは乾元二年三月三日壬中であり、此の詩はしきりに官軍の捷報を得て未だ敗れなかったときに成ったものであるから、そのことにより同年二月中の作で、洛陽での作とする。原注に「収京後作」とある。
  
  洗兵行(洗兵馬)
  中興諸將收山東,捷書夜報清晝同。
  河廣傳聞一葦過,胡危命在破竹中。
  ?殘?城不日得,獨任朔方無限功。
  京師皆騎汗血馬,回??肉蒲萄宮。
  已喜皇威清海岱,常思仙仗過??。
  三年笛裡關山月,萬國兵前草木風。』
  成王功大心轉小,郭相謀深古來少。
  司徒清鑒懸明鏡,尚書氣與秋天杳。
  二三豪俊為時出,整頓乾坤濟時了。
  東走無複憶鱸魚,南飛覺有安?鳥。
  青春複隨冠冕入,紫禁正耐煙花繞。
  鶴禁通宵鳳輦備,?鳴問寢龍樓曉。』
  攀龍附鳳勢莫當,天下盡化為侯王。
  汝等豈知蒙帝力?時來不得誇身強。
  關中既留蕭丞相,幕下複用張子房。
  張公一生江海客,身長九尺須眉蒼。
  ?起適遇風雲會,扶顛始知籌策良。
  青袍白馬更何有?後漢今周喜再昌。』
  寸地尺天皆入貢,奇祥異瑞爭來送。
  不知何國致白環,複道諸山得銀甕。
  隱士休歌紫芝曲,詞人解撰清河頌。
  田家望望惜雨幹,布穀處處催春種。
  淇上健兒歸莫懶,城南思婦愁多夢。
  安得壯士挽天河,淨洗甲兵長不用!』
  
  
