元桔「賊退示官吏(并序)」訳注解説
唐に着手金を支払う余裕がなく、肅宗は仕方なく回?に財物と女性を略奪してもよいという取り決めで援軍を承諾した。このことは、反乱軍の支配地を回復すれば、住民にとって、同時に、凌辱、略奪、収奪の始まりを覚悟しなければいけないことであった。しかし、反乱軍との戦いに住民としては、悪貨によるインフレに加え、回復、解放が悪夢を呼ぶのであるから、どちらの軍に味方したくない状況であった。こうしたこともあって、廣平王李俶、(後の代宗)により長安回復後の略奪は是が非でも阻止しなくてはならないことであったが、その代わりに、「願至東京乃如約(願はくは東京【洛陽】に至らば乃ち約のごとくせよ)」ということを、黙認せざるを得なかったことが、洛陽の真の回復が史朝羲を破る、762年まで足掛け八年もかかった要因である。
杜甫房?が、粛宗、賀蘭進明、第五gらと反目した大きな問題点の一つである。
〔ただ、758年、洛陽が奪回された時には、洛陽の父老が回?に羅錦萬匹を贈り、略奪を免れたが、759年史朝義に奪い返され、762年に奪還した。〕
房?は諸王か連合して賊軍を包囲し孤立させるという諸王が連合して反乱軍を包囲し、孤立させる。諸王分鎮策を唱え、賀蘭進明・第五gらは粛宗単勝利の方策を掲げ対立した。
粛宗は後者の政策を採用した。粛宗の周りには、利益供与、機体のグループ、張皇后、李輔國等の宦官と政策的バックボーンとしての賀蘭進明、第五gらしかいなかったのである。
房?の経済政策は民衆への直面の負担、奪還後の略奪を回避する方向であったのに対し、賀蘭進明・第五gらは晴極的攻勢を目指したため増脱・貨幣改鋳・塩の専売制、江南の年貢・租庸調の現金化を実施し、民衆の生活が疲弊しても、ひたすら早期に奪還することを政策の柱とした。
元結〈賊退示官吏(并序)〉
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杜甫詩
元結〈賊退示官吏(并序)〉(搜韻)
序#1
癸卯?,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
#2
昔?逢太平,山林二十年。泉源在庭?,洞壑當門前。
井?有常期,日晏猶得眠。忽然遭世變,數?親戎旃。
#3
今來典斯郡,山夷又紛然。城小賊不屠,人貧傷可憐。
是以陷鄰境,此州獨見全。使臣將王命,豈不如賊焉。
#4
今彼?斂者,迫之如火煎。誰能?人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。將家就魚麥,歸老江湖邊。
賊退示官吏
癸卯?,西原賊入道州,焚燒殺掠,幾盡而去。
明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?
蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
(賊退きしとき官吏に示す)
癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。
『賊退示官吏』 現代語訳と訳註解説
(本文)
賊退示官吏
癸卯?,西原賊入道州,焚燒殺掠,幾盡而去。
明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?
蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
(下し文)
(現代語訳)
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
(訳注)
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
道州の地は、広徳元年(763)九月以降に三カ月ほど西原蠻の賊の侵入を被っている。里広徳二年五月二十二日に元結は道州に着任し、それから五十日余り後に「舂陵行」と「奏免科率状」が書かれた。「賊退示官吏」序に「明年、敗又攻永州、破部、不犯此州連郡両道」とあるのによれば、広徳二年(764)にも賊が遭州に追ったことになる。一方、永泰二年(七六六)の「奏免科率等状」には「去年又賊逼州界、防拝一首除目。賊攻永州、陷邵州、臣州濁全者、爲百姓捍賊。」とあり、この賊の侵入は765年であったことになる。この100日余りの侵入がいつごろであったかはなお疑問だが、「賊退示官吏」は、少なくとも「舂陵行」が書かれてから三カ月以上後に制作されたものであると思われる。
この楽府は序に「藷使何爲忍苦徴斂。」とあるとおり、諸使の徴求に対する憤りが中心になっている。詩の序文はまず、西原の賊が道州に侵入し、翌764年広コ二年にも周辺の郡に侵入したが、道州はあまりにも悲惨な状況であったので、その賊ですら手を付けなかったと述べる。
癸卯?,西原賊入道州,焚燒殺掠,幾盡而去。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
○癸卯歳 代宗の廣コ元年(763)をいう。
○西原賊入道州 「唐書」《西原蛮伝》「其種落張侯、夏永與夷?梁崇牽、覃問及西原酋長?功曹復合兵?寇,陷道州,據城五十餘日。桂管經略使?濟?平之,執?功曹等。餘衆復圍道州,刺史元結固守不能下,進攻永州,陷邵州,留數日而去。」にいう、西原の種落張侯・夏永等内寇し道州を陥れ城に拠ること五十余日、桂管経略使刑部撃ちて之を平らぐ、余衆復た道州を囲む、刺史元結固く守りて下らず、永州に進攻し,邵州を陷し,留ること數日にして去る。と。
○焚掠 家をやき物品をかすめとる。
明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
○明年 広徳二年。
○攻永破邪 永は永州、郡は那州、遠州の北、及び西北にある州。
○不犯此州邊鄙而退 顔真卿が撰した元結墓碑にいう、武昌の焚口に家すること歳余、上(代宗)君が貧に居るを以て家より起こして道州刺史となす。州は西原の賊の陥るる所となり、人は十に一なく、戸は纔かに千に満つ。君、車より下りて古人の政を行う、二年の間、帰るもの万余家、賊も亦た畏れを懐きて敢て来たり犯さず、既に代を受く、百姓闕に詣り、生祠を立てんと請う、と。元結の治績を知ることができよう。
蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
苦?斂 税の取り立てを厳しくするために住民を苦しめる。征:?收。斂:聚。征斂無限・期:統治者が無限度に土地、家族構成に見合った税を徴収すること。
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杜甫詩1500-917-関連-2-#2-1388/2500
元結〈賊退示官吏(并序)〉(搜韻)
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
序#1
癸卯?,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。
#2
昔?逢太平,山林二十年。
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
泉源在庭?,洞壑當門前。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
井?有常期,日晏猶得眠。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
忽然遭世變,數?親戎旃。
れが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
#3
今來典斯郡,山夷又紛然。城小賊不屠,人貧傷可憐。
是以陷鄰境,此州獨見全。使臣將王命,豈不如賊焉。
#4
今彼?斂者,迫之如火煎。誰能?人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。將家就魚麥,歸老江湖邊。
昔歳 太平に逢い、山林にあること 二十年。
泉源 庭戸に在り、洞壑 門前に当たる。
井税に 常期有り、日 晏くして猶お眠るを得たり。
忽然として 世変に遭い、数歳 親ら戎旃す。』
今来 彼の郡を典るに、山夷 又た紛然たり。
城小にして賊屠らず、人貧にして傷みて憐れむ可しとす。
是を以て 隣境を陥るるも、此の州 独り全くせらる。
使臣 王命を将う、豈に賊にだも如かざらんや。』
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
『賊退示官吏』 現代語訳と訳註解説
(本文) #2
昔?逢太平,山林二十年。
泉源在庭?,洞壑當門前。
井?有常期,日晏猶得眠。
忽然遭世變,數?親戎旃。
(下し文)
歳 太平に逢い、山林にあること 二十年。
泉源 庭戸に在り、洞壑 門前に当たる。
井税に 常期有り、日 晏くして猶お眠るを得たり。
忽然として 世変に遭い、数歳 親ら戎旃す。』
(現代語訳)
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
れが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
(訳注) #2
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
・この楽府は序に「藷使何爲忍苦徴斂。」とあるとおり、諸使の徴求に対する憤りが中心になっている。詩の序文はまず、西原の賊が道州に侵入し、翌764年広コ二年にも周辺の郡に侵入したが、道州はあまりにも悲惨な状況であったので、その賊ですら手を付けなかったと述べる。
・最初の西原の賊の侵入に関しては、「奏免科率状」に「臣當州被西原賊屠陥、賊停留一月餘、日焚焼糧儲居宅、浮掠百姓男女、駆殺牛馬老少、一州幾盡。賊散後、百姓歸復、十不存一。」と、より詳細に述べられ、翌広徳二年764の侵入に関しても「奏免科率等状」に指摘されている。序は続いて諸使の徴求の厳しさを述べるが、この部分は「舂陵行」に「郵亭傳急符,來往跡相追。更無ェ大恩,但有迫促期。」とある部分に対応する。巌しい徴税は「奏免科率状」「舂陵行」制作後、西原蠻の賊の侵入時にも続いていたと思われる。
・やがて「奏免科率状」に対して恩赦が下り、「広徳二年賀赦表」(764)が書かれ、引き続き改元に伴なう恩赦に対応して「永泰元年賀赦表」(765)が書かれることになるのであるが、この「賊封示官吏」制作時点ではまだ厳しい徴税の符牒が届けられていたのであろう。
・「奏免科率等状」には、賊の侵入を防いでいた、とあるのに対して、序では「不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已」と表現されている。また「新唐書」巻二二二下、西原蠻列伝には、「餘衆復閑適州、刺史元結固守、不能下。進攻永州、陥那州、留敷H而去。(僚衆復た遠州を寓むも、刺史元結固く守れば、下す能はず。進みて永州を攻め、部州を陥れ、留ること救日にして去る。)」と、元結が鹿の侵入を防いだことを記す。おそらく西原蠻の賊の侵入を防いだのが事実であったのだろう。「敗退示官吏」序では、賊ですら哀れんだと記すことによって、民を哀れむこともなく、厳しく徴税を行なう諸使の苛酷さが一層際立つように描かれているのである。
昔?逢太平,山林二十年。
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
○太平 唐では、初唐の「貞観の治」があり、盛唐の「開元の治」があり、この事を指す。
貞観の治は唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「−海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。
開元の治は唐(618年 - 907年)の第6代皇帝・玄宗李隆基の治世、開元(元年 - 29年)年間(713年 - 741年)の政治を指す。貞観の治と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つで、唐は絶頂期を迎えた。しかし、後に玄宗が楊貴妃を寵愛し政治を放棄したため唐は混乱し、安史の乱が起こったため崩壊した。
泉源在庭?,洞壑當門前。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
〇泉源・洞壑 源泉はきちんと維持管理していないと奇麗な水にはならない。洞壑は洞穴と谷で僧侶・隠者の修行のための場所で、太平の時代には整備利用がなされていたことをいう。・この二句は、太平の頃の、「−海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」の別表現である。
井?有常期,日晏猶得眠。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
○井税 井字形の田地の税、単に田税の意。《魏書?李世安傳》「井?之興, 其來日久。」 唐錢起《觀村人牧山田》詩「貧民乏井?, ?土皆墾鑿。」
忽然遭世變,數?親戎旃。
それが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
○世変 安・史の乱をいう。
○数歳親戎栴 文官である元結も、粛宗朝以来軍務にたずさわったことをいうが、それはすべての者に適用され駆り出されたことをいう。栴は反物のままを掛かげけた旗。旗は小吏を磨れば残ってゆくが、敗けると踏みにじられ焼却されるので、旗の製作が間に合わない状態をいう。ここでは、兵士の数が不足して行くのでその補充に徴兵条件が拡大されていくことをいう。
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杜甫詩
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元結〈賊退示官吏(并序)〉(搜韻)
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
序#1
癸卯?,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。
#2
昔?逢太平,山林二十年。
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
泉源在庭?,洞壑當門前。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
井?有常期,日晏猶得眠。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
忽然遭世變,數?親戎旃。
れが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
#3
今來典斯郡,山夷又紛然。
わたしは、このたび、この道州をつかさどりはじめたら、西原蠻の山の夷どもが紛然と攻め込んできた。
城小賊不屠,人貧傷可憐。
しかし小さな城であるのに西原蠻の賊はこれを屠らず、人民が貧乏なので彼らも心をいためてきのどくだとおもったようだ。
是以陷鄰境,此州獨見全。
そのため彼らは隣境の永州、その西側の件B等の地は陥れたがこの道州だけは安全にしておいてくれた。
使臣將王命,豈不如賊焉。
地方へ使者となって、出ている上司は天子の命を奉行するのがその職務であるが、それがどうして彼ら西原蠻ごときに劣ってよいというのだろうか。
#4
今彼?斂者,迫之如火煎。誰能?人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。將家就魚麥,歸老江湖邊。
昔歳 太平に逢い、山林にあること 二十年。
泉源 庭戸に在り、洞壑 門前に当たる。
井税に 常期有り、日 晏くして猶お眠るを得たり。
忽然として 世変に遭い、数歳 親ら戎旃す。』
今来 彼の郡を典るに、山夷 又た紛然たり。
城小にして賊屠らず、人貧にして傷みて憐れむ可しとす。
是を以て 隣境を陥るるも、此の州 独り全くせらる。
使臣 王命を将う、豈に賊にだも如かざらんや。』
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
『賊退示官吏』 現代語訳と訳註解説
(本文) #3
今來典斯郡,山夷又紛然。城小賊不屠,人貧傷可憐。
是以陷鄰境,此州獨見全。使臣將王命,豈不如賊焉。
(下し文)
今来 彼の郡を典るに、山夷 又た紛然たり。
城小にして賊屠らず、人貧にして傷みて憐れむ可しとす。
是を以て 隣境を陥るるも、此の州 独り全くせらる。
使臣 王命を将う、豈に賊にだも如かざらんや。』
(現代語訳)
わたしは、このたび、この道州をつかさどりはじめたら、西原蠻の山の夷どもが紛然と攻め込んできた。
しかし小さな城であるのに西原蠻の賊はこれを屠らず、人民が貧乏なので彼らも心をいためてきのどくだとおもったようだ。
そのため彼らは隣境の永州、その西側の件B等の地は陥れたがこの道州だけは安全にしておいてくれた。
地方へ使者となって、出ている上司は天子の命を奉行するのがその職務であるが、それがどうして彼ら西原蠻ごときに劣ってよいというのだろうか。
(訳注) #3
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
「新唐書」巻二二二下、西原蠻列伝には、「餘衆復閑適州、刺史元結固守、不能下。進攻永州、陥那州、留敷H而去。(僚衆復た遠州を寓むも、刺史元結固く守れば、下す能はず。進みて永州を攻め、部州を陥れ、留ること救日にして去る。)」と、元結が鹿の侵入を防いだことを記す。おそらく西原の敗の侵入を防いだのが事実であったのだろう。「敗退示官吏」序では、賊ですら哀れんだと記すことによって、民を哀れむこともなく、厳しく徴税を行なう萬使の苛酷さが一層際立つように描かれているのである。
詩の本文は「舂陵行」とは異なって、まず道州制史となるまでの自らの状況を述べることから始まる。続いて敗すら憐れんだ道州に対して租税の徴求が厳しくなされていることに対する批判が展開される。「使臣」「彼徴斂者」すなわち租税の徴斂のために命を受けて州県に赴く官僚をその批判の直接の対象としているのである。最後にこうした状況に対時した時の自らの決意、即ち官を辞するという決断が呈示される。
今來典斯郡,山夷又紛然。
わたしは、このたび、この道州をつかさどりはじめたら、西原蠻の山の夷どもが紛然と攻め込んできた。
○斯郡 道州。道州 (江南西道 道州 道州)
○山東 西原蛮。
城小賊不屠,人貧傷可憐。
しかし小さな城であるのに西原蠻の賊はこれを屠らず、人民が貧乏なので彼らも心をいためてきのどくだとおもったようだ。
○人貧 この地の陣人が貧窮している。
○傷可憐 あまりに貧窮、疲弊しているのでそれを哀れに思ったということ。
是以陷鄰境,此州獨見全。
そのため彼らは隣境の永州、その西側の件B等の地は陥れたがこの道州だけは安全にしておいてくれた。
○隣境 永州件B。
使臣將王命,豈不如賊焉。
地方へ使者となって、出ている上司は天子の命を奉行するのがその職務であるが、それがどうして彼ら西原蠻ごときに劣ってよいというのだろうか。
○使臣 上司をさす。
○将王命 天子の命を行なう。
豈不如賊焉 賊は、西原蠻で、彼等は、略奪強奪はするものの、来年の種もみは残すし、最低限の生活ができる事の配慮はする。それに比較して、税徴収するのに配慮が全くないことから、上司のやり方は劣っているという。
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杜甫詩1500-917-関連-2-#4-1390/2500
元結〈賊退示官吏(并序)〉(搜韻)
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
序#1
癸卯?,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。
癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。
翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。
#2
昔?逢太平,山林二十年。
むかしは太平の御代で自分は山林生活を二十年もした。
泉源在庭?,洞壑當門前。
そのころは湧き出る泉の水は庭戸のそばにあり、洞壑は門前にあたってよこたわってそんざいした。
井?有常期,日晏猶得眠。
田地の税金をおさめるにはきまった時期があり、日が長けるまで眠っていることができた。
忽然遭世變,數?親戎旃。
れが急に世のなかの変事である安史の乱に遭遇して、一変したのであり、数年の間に軍事負担が自分のみならずすべての者におわされることになった。』
#3
今來典斯郡,山夷又紛然。
わたしは、このたび、この道州をつかさどりはじめたら、西原蠻の山の夷どもが紛然と攻め込んできた。
城小賊不屠,人貧傷可憐。
しかし小さな城であるのに西原蠻の賊はこれを屠らず、人民が貧乏なので彼らも心をいためてきのどくだとおもったようだ。
是以陷鄰境,此州獨見全。
そのため彼らは隣境の永州、その西側の件B等の地は陥れたがこの道州だけは安全にしておいてくれた。
使臣將王命,豈不如賊焉。
地方へ使者となって、出ている上司は天子の命を奉行するのがその職務であるが、それがどうして彼ら西原蠻ごときに劣ってよいというのだろうか。
#4
今彼?斂者,迫之如火煎。
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
誰能?人命,以作時世賢。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
思欲委符節,引竿自刺船。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
昔歳 太平に逢い、山林にあること 二十年。
泉源 庭戸に在り、洞壑 門前に当たる。
井税に 常期有り、日 晏くして猶お眠るを得たり。
忽然として 世変に遭い、数歳 親ら戎旃す。』
今来 彼の郡を典るに、山夷 又た紛然たり。
城小にして賊屠らず、人貧にして傷みて憐れむ可しとす。
是を以て 隣境を陥るるも、此の州 独り全くせらる。
使臣 王命を将う、豈に賊にだも如かざらんや。』
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
『賊退示官吏』 現代語訳と訳註解説
(本文) #4
今彼?斂者,迫之如火煎。
誰能?人命,以作時世賢。
思欲委符節,引竿自刺船。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
(下し文)
今 彼の徴斂の者、之に迫ること火の煎するが如し。
誰か能く人命を絶ちて、以て時世の賢と作さん。
符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す。
家を将て 魚麥に就き、老を江湖の辺に帰せん。』
(現代語訳)
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
(訳注) #4
賊退示官吏
(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
道州の地は、広徳元年(763)九月以降に三カ月ほど西原蠻の賊の侵入を被っている。里広徳二年五月二十二日に元結は道州に着任し、それから五十日余り後に「舂陵行」と「奏免科率状」が書かれた。「賊退示官吏」序に「明年、敗又攻永州、破部、不犯此州連郡両道」とあるのによれば、広徳二年(764)にも賊が遭州に追ったことになる。一方、永泰二年(七六六)の「奏免科率等状」には「去年又賊逼州界、防拝一首除目。賊攻永州、陷邵州、臣州濁全者、爲百姓捍賊。」とあり、この賊の侵入は765年であったことになる。この100日余りの侵入がいつごろであったかはなお疑問だが、「賊退示官吏」は、少なくとも「舂陵行」が書かれてから三カ月以上後に制作されたものであると思われる。
この楽府は序に「藷使何爲忍苦徴斂。」とあるとおり、諸使の徴求に対する憤りが中心になっている。詩の序文はまず、西原の賊が道州に侵入し、翌764年広コ二年にも周辺の郡に侵入したが、道州はあまりにも悲惨な状況であったので、その賊ですら手を付けなかったと述べる。最初の西原の賊の侵入に関しては、「奏免科率状」に「臣當州被西原賊屠陥、賊停留一月餘、日焚焼糧儲居宅、浮掠百姓男女、駆殺牛馬老少、一州幾盡。賊散後、百姓歸復、十不存一。」と、より詳細に述べられ、翌広徳二年764の侵入に関しても「奏免科率等状」に指摘されている。序は続いて諸使の徴求の厳しさを述べるが、この部分は「舂陵行」に「郵亭傳急符,來往跡相追。更無ェ大恩,但有迫促期。」とある部分に対応する。巌しい徴税は「奏免科率状」「舂陵行」制作後、西原蠻の賊の侵入時にも続いていたと思われる。やがて「奏免科率状」に対して恩赦が下り、「広徳二年賀赦表」(764)が書かれ、引き続き改元に伴なう恩赦に対応して「永泰元年賀赦表」(765)が書かれることになるのであるが、この「賊封示官吏」制作時点ではまだ厳しい徴税の符牒が届けられていたのであろう。「奏免科率等状」には、賊の侵入を防いでいた、とあるのに対して、序では「不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已」と表現されている。また「新唐書」巻二二二下、西原蠻列伝には、「餘衆復閑適州、刺史元結固守、不能下。進攻永州、陥那州、留敷H而去。(僚衆復た遠州を寓むも、刺史元結固く守れば、下す能はず。進みて永州を攻め、部州を陥れ、留ること救日にして去る。)」と、元結が鹿の侵入を防いだことを記す。おそらく西原の敗の侵入を防いだのが事実であったのだろう。「敗退示官吏」序では、賊ですら哀れんだと記すことによって、民を哀れむこともなく、厳しく徴税を行なう萬使の苛酷さが一層際立つように描かれているのである。
詩の本文は「舂陵行」とは異なって、まず道州制史となるまでの自らの状況を述べることから始まる。続いて敗すら憐れんだ道州に対して租税の徴求が厳しくなされていることに対する批判が展開される。「使臣」「彼徴斂者」すなわち租税の徴斂のために命を受けて州県に赴く官僚をその批判の直接の対象としているのである。最後にこうした状況に対時した時の自らの決意、即ち官を辞するという決断が呈示される。
今彼?斂者,迫之如火煎。
いまここに、かの税をとりたてる者のありさまをみると彼らは人民に迫ることは火が煎り付けるほどにおもわれる。
?斂者 序に見える「豈力能制敵歟」のこと。苦?斂 税の取り立てを厳しくするために住民を苦しめる。征:?收。斂:聚。征斂無限・期:統治者が無限度に土地、家族構成に見合った税を徴収すること。
誰能?人命,以作時世賢。
だれができるというのか、それが人民の生命まで絶つことであるのに、それで、時世の賢人とよばれ、立派であるとされたいのか。
○時世賢 元結《舂陵行》#7「前賢重守分,惡以禍福移。亦雲貴守官,不愛能適時。」「能適時」とあるのもおなじ、時世むきの賢人、孟子「今之所謂良臣、古之所謂民賊也」(今の艮臣は、古の民賊)といっているのと同意。
元結 《舂陵行(并序)-#6》【7分割】 <杜甫詩1939同元使君舂陵行>関連 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6070
思欲委符節,引竿自刺船。
そんなことなら自分はあずかっている切手や割符をうち棄てて、竹竿をひきよせて船を刺しているほうがよい。
○委符節 委はうちすてること。
將家就魚麥,歸老江湖邊。
家じゅうをひきつれて魚やむぎのある場所に就き、江湖のあたりにひきこんで隠居しょうとおもうところである。
○将家 将はひきいる。
○魚麥 さかなとむぎ。水の物とやまのもの、耕作物。。
「敗退示官吏」は、中央の官僚を対象に作られたものではなくで、直接には元結の身近にいた州県の官吏を対象にしたものであろうと思われる。身近にいる官吏に向けての発言であったからこそ、徴税の役人を盗賊に比較しても劣るとするような激しい憤りの表現が可能だったのである。
西原蠻の賊と対峙する一方で、州民を収奪するかのごとき厳しい徴税が引き続き行なわれているという状況の中から生じた、中央の政策に対する憤りをもって、周囲にいる、やはり無自覚で民を憂えることを知らず、民に酷く追ってやまぬ官吏たちに対峙したとき、この数篇の詩は成立したのである。一方で 「舂陵行」を書き、周到に自らの態度を中央に表明し、その一方で自らの憤りを周囲の官吏に明らかにすることにあった。ここに杜甫が自らも華州参軍において、《乾元元年華州試進士策問五首》において示した手法と同じものを元結の一聯の楽府に見たのである。
757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首 (23) 全体》 杜甫<1509-T> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500/2500
これらを踏まえて、杜甫 《1939同元使君舂陵行》【5分割】について見てゆく。
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杜甫詩1500-916-#1-1380/2500
杜甫が766年大暦元年55?-52
代宗 廣コ元年(763):元結〈舂陵行(并序)〉○
元結(謝上表)
元結(奏免科率状)
代宗 廣コ二年(764):元結〈賊退示官吏(并序)〉○
代宗 大?二年(766):杜甫〈同元使君舂陵行(有序)〉○
「舂陵行」は、元結(723−772) の代表作とされる有名な作品で、中唐元和時期の新楽府に重大な影響を与えたと目されている。早くは、元結と同時代の大詩人杜甫(712−770) が「舂陵行」に対して以下のような高い評価を与えている。
この評価によって、「舂陵行」は元結の作品の中で最も重要なものとなったと考えられる。
では、杜甫が言及した「比興體制」とはいったいどういう意味なのか。そして、「舂陵行」の「比興體制」は、中晩唐楽府、特に元和新楽府にどのような貢献をしたのだろうか。
元結 (723年−772年5月26日)中唐の詩人。次山,號漫郎、猗?子,河南の魯山の人。伝記は同時代の顔真卿の墓碑銘に詳しい。不安な社会相を描いた作品にすぐれ,〈系楽府(けいがふ)〉12首は,白居易らの新楽府運動の先駆となった。そのうち〈舂陵行(しようりようこう)〉はことに有名である。また華美な今体詩を排撃し,古詩を賞揚する目的で《篋中(きようちゆう)集》(760)を編纂した。《元次山文集》10巻が伝わる。
天寶十二載(753年)進士。
乾元元年(758年) 蘇源明、元結を帝に薦む。被任命為左金吾衛兵曹參軍、監察御史。
上元元年(760)年元結《篋中集》を編纂す。
上元二年(761年),任山南道節度使參謀,守泌陽,
寶應元年(762年),唐代宗即位後,為著作郎。追贈其父元延祖為左贊善大夫。
廣徳元年763年,出任道州刺史
杜甫が元結を高く評価した《1939同元使君舂陵行》において、元使君結としている。道州刺史元結、使君は刺史の敬称。「新唐書」の元結伝を見てみると次の通り。(節録、元結、河南の人、後魏の常山王遵が十五代の孫なり。字は次山、年十七、学に志し元徳秀に事う。天宝十二載進士に挙げらる。粛宗の時、史思明河陽を攻む、蘇源明、元結を帝に薦む。元結、時議三篇を上る。のち諾官を経、泌陽に屯して十五城を全くせし功を以て監察御史裏行となる。又た山南東道の来?が府に参謀たり。代宗立つや辞して武昌の樊上に帰り、著作郎を授けらる。益ます書を著わす。元子・浪士・漫郎・?叟・漫叟等と号す。久しくして道州刺史を拝す。(刺史の時のことは「舂陵行」詩にみえる。)容管経略使に進む。母の喪にあい罷めて京都に還り卒す。年五十。礼部侍郎を贈らる。道州は湖南永州府に属する。
元結(723年−772年5月26日),字次山,號漫郎、猗?子,河南魯山人。唐朝進士、官員。
北魏常山王拓跋遵的十二代孫,尚書都官郎中、常山郡公元善?的玄孫,朝散大夫、褒信令、常山公元仁基的曾孫,霍王府參軍元利貞的孫子,魏成主簿、延唐丞元延祖的兒子。天寶十二載(753年)進士。安史之亂,史思明攻克洛陽,他到長安向唐肅宗上書。被任命為左金吾衛兵曹參軍、監察御史。761年,任山南道節度使參謀,守泌陽,保住了15座城。寶應元年(762年),唐代宗即位後,為著作郎。追贈其父元延祖為左贊善大夫。763年,出任道州刺史,減輕賦?,免除徭役。第二年,為容管經略使,幾個月?,安定了容管八州。逝世後,追贈禮部侍郎。
二子元以方、元以明。元結有《元次山集》。
年:766年大暦元年55?
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
同元使君舂陵行#1 序
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
覽道州元使君結《舂陵行》,兼《賊退後示官吏》作二首。
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
不意復見〈比興體制〉,〈微婉頓挫〉之詞。」
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
歎時藥力薄,為客羸?成。
吾人詩家秀,博采世上名。
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
觀呼舂陵作,?見俊哲情。
復覽賊退篇,結也實國驕B
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
兩章對秋月,一字偕華星。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
何時降璽書,用爾為丹青。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。
悽惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。
涼飆振南岳,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。
肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱几臨軒楹。
作詩呻吟?,K澹字?傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
#2
亂に遭いて髮 盡く白し,轉た衰えて 病 相い嬰る。
沈綿たり 盜賊の際,狼狽して江漢に行く。
時を歎じて 藥力薄く,客と為りて 羸?【るいさい】成れり。
吾人 詩家の秀にては,博く采る 世上の名。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』#1 序 現代語訳と訳註解説
(本文)
序
覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
(下し文)
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
(現代語訳)
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それをを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
(訳注)
同元使君舂陵行#1 序
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
○同 詩を和して作ることをいう。
○元使君結 道州刺史元結、使君は刺史の敬称。「新唐書」の元結伝にいう(節録、元結、河南の人、後魏の常山王遵が十五代の孫なり。字は次山、年十七、学に志し元徳秀に事う。天宝十二載進士に挙げらる。粛宗の時、史思明河陽を攻む、蘇源明、元結を帝に薦む。元結、時議三篇を上る。のち諾官を経、泌陽に屯して十五城を全くせし功を以て監察御史裏行となる。又た山南東道の来?が府に参謀たり。代宗立つや辞して武昌の樊上に帰り、著作郎を授けらる。益ます書を著わす。元子・浪士・漫郎・?叟・漫叟等と号す。久しくして道州刺史を拝す。(刺史の時のことは「舂陵行」詩にみえる。)容管経略使に進む。母の喪にあい罷めて京都に還り卒す。年五十。礼部侍郎を贈らる。道州は湖南永州府に属する。
〇舂陵行 元結の作る所の詩。
舂陵行 序
癸卯?,漫叟授道州刺史。道州舊四萬餘?,經賊已來,不滿四千,大半不勝賦?。到官未五十日,承諸使征求符牒二百餘封,皆曰:"失其限者,罪至貶削。" 於戲!若悉應其命,則州縣破亂,刺史欲焉逃罪;若不應命,又即獲罪?,必不免也。吾將守官,靜以安人,待罪而已。此州是舂陵故地,故作《舂陵行》以達下情。(癸卯の歳、漫叟道州刺史を授けらる。道州は舊四萬余戸、賊を経て以来、四千に満たず、大半は賦税に勝へず。官に到りて末だ五十日ならざるに、諸使の徴求、符牒二百余封を承く。皆曰く「其の限を失ふ者は、罪貶削に至る」と。於戲、若し悉く其の命に應ずれば、則ち州縣乱す。刺史焉くにか罪を逃れんと欲す。若し命に應ぜずんば、又た即ち罪戻を獲んこと、必ず免れざるなり。吾将に官を守り、静にして以て人を安んじ、罪を待つのみ。此の州は是れ舂陵の故地なり、故に「舂陵行」を作りて以て下情を達す。)
(舂陵すなわち道州のことについてよんだうた。)
代宗の広徳元年契卯の歳に漫叟(元結の号)は道州刺史を授けられた。道州はもと四万戸余りあったが賊乱をへてこのかたは四千にたりなくなり、その大半は税金をわりつけるにたえぬものである。自分は着任して五十日にならぬうちに上司から税金徴収の切手・かきつけ二百余通を申しつけられた。上司たちだれもが皆、「もし期限内に徴集項目の税金をあつめなければおまえは貶削の罪になる」とゆうたのである。ああ、もしみんなこの命令どおりにしたらすなわち、州や県は乱破してしまうであろう。そうなったら刺史はどこに罪をのがれるか、のがれ場所がないではないか。またもし命令に応ぜねとしたらまたすぐに罪科を得る、きっとそれはのがれられぬことである。どうせそうなのなら、自分としては官職を守って、安静を以て人民をおちつかせて、自己の罰せられるのを待とうとするだけのことだ。この道州はむかしの舂陵の地だ、それで「舂陵行」という詩をつくって下民の情を上たるものに通達するのである。
元結 《舂陵行(并序)》【5分割】 <杜甫詩1939同元使君舂陵行>関連 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6045 杜甫詩1500-916-#1-1380/2500
覽道州元使君結《舂陵行》,兼《賊退後示官吏》作二首。
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
○賊退後示官吏作 元結の作る所の詩。
賊退示官吏(賊が退いたとき官吏に示した詩。)
序:癸卯?,西原賊入道州,焚燒(一本無焚燒二字)殺掠,幾盡而去。明年,賊又攻永破邵,不犯此州邊鄙而退,豈力能制敵歟?蓋蒙其傷憐而已,諸使何為忍苦?斂,故作詩一篇以示官吏。(癸卯の歳、西原の賊道州に入り、焚掠 幾ど尽して去る。明年 賊又た 永を攻め郡を破る、此の州の辺都を犯さずして退く。豈に力能く敵を制せん与、蓋し其の傷憐を蒙りし而己。諸使何 為れぞ苦しんで徴斂するに忍ぶや。故に詩一篇を作り、以て官吏に示す。)
西原蠻の賊でさえこんなであるのに、なんで上司の人たちは酷い取り立てをすることを無理にするのか。そういうことでわたしはこの楽府詩、一篇をつくって官吏にみせたのである。癸卯(763年広徳元年)の歳に西原蠻の酋長が賊となって道州に入り込み、ほとんどあらゆるものを焚いたり略奪・強奪して去った。翌二年に、その賊はまた永州を攻め、郡州を破ったが、この道州の辺鄙は犯すことなしに退却した。これは自分の力がこの敵を刺したわけではない、どういうわけか、その賊の方から気の毒がってくれたおかげである。
元結 《賊退示官吏(并序)》【4分割】 <杜甫詩1939同元使君舂陵行>関連 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ6080
志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。
(異文):【效漢官良吏之日】【效漢朝良吏之目】【效漢朝良吏之日】。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
○志之 志は誌に同じ。
○天子分憂 天子の憂いを分担することをいう、地方官の職をいう。
○漢官良吏之目 漢官良吏とは漢代の循良の吏をいう、目は名目、前史にその名が列せられる。
今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。
(異文):【萬姓壯氣】【天下小安】【可得已】。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それをを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
○落落然 散布のさま。
○参錯 あちこちとまじえおくこと。
○邦伯 一地方の長官。
○吐気 生気をはきだす。
不意復見〈比興體制〉,〈微婉頓挫〉之詞。」
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
○比興體制 詩の手法である、体制内批判の手法の詩。比興【ひきょう】:@ 他の物にたとえて、おもしろく言うこと。転じて、おもしろく興あること。また、そのさま。A 《「ひきょ(非拠)」の変化した語。一説に「ひきょう(非興)」の意とも》?不都合なこと。不合理なこと。また、そのさま。?いやしいこと。つまらないこと。また、そのさま。?臆病なこと。卑怯なこと。また、そのさま。
○微婉頓挫 徴腕はおくふかくしなやか。頓挫は激揚した力を急に停止させること。比興手法の表現の仕方をいう。
感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
【不必寄云】。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
○増諸巻軸 自分の巻軸に加えて保存する。
○簡 よせること。
○知我者 自分の本心を知るもの。
?
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
(序文)
同元使君舂陵行#1 序
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
覽道州元使君結《舂陵行》,兼《賊退後示官吏》作二首。
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
不意復見〈比興體制〉,〈微婉頓挫〉之詞。」
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
(本文)
#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
自分は騒乱におうて、転々とするうち、髪はすっかり白くなったし、だんだん老衰するのに病気にまとわれている。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
各地でこんなに盗賊が、はびこっているときなのにわたしの病はおもいのに、うろたえながら転々と江漢の地方にいまだに彷徨っているのである。
歎時藥力薄,為客羸?成。
時世をなげくためか薬の効能も弱く、旅人となっているうちにすっかり肺労になりきった。
吾人詩家秀,博采世上名。
我我、詩人文章家は、詩家中ですぐれたものにおいては世上の著名の作家の作品を採って参考とするものである。
#2
亂に遭いて髮 盡く白し,轉た衰えて 病 相い嬰る。
沈綿たり 盜賊の際,狼狽して江漢に行く。
時を歎じて 藥力薄く,客と為りて 羸?【るいさい】成れり。
吾人 詩家の秀にては,博く采る 世上の名。
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。觀乎舂陵作,?見俊哲情。
複覽賊退篇,結也實國驕B賈誼昔流慟,匡衡常引經。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。兩章對秋月,一字偕華星。
致君唐虞際,純樸憶大庭。何時降璽書,用爾為丹青。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。淒惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。涼飆振南嶽,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱幾臨軒楹。作詩呻吟?,墨澹字欹傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』 現代語訳と訳註解説
(本文)#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
歎時藥力薄,為客羸?成。
吾人詩家秀,博采世上名。
(下し文) #3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
(現代語訳)
自分は騒乱におうて、転々とするうち、髪はすっかり白くなったし、だんだん老衰するのに病気にまとわれている。
各地でこんなに盗賊が、はびこっているときなのにわたしの病はおもいのに、うろたえながら転々と江漢の地方にいまだに彷徨っているのである。
時世をなげくためか薬の効能も弱く、旅人となっているうちにすっかり肺労になりきった。
我我、詩人文章家は、詩家中ですぐれたものにおいては世上の著名の作家の作品を採って参考とするものである。
(訳注)#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
自分は騒乱におうて、転々とするうち、髪はすっかり白くなったし、だんだん老衰するのに病気にまとわれている。
○遭亂 755年11月安史の乱に始まり、妻子を疎開させたもの、捕縛され長安につながれた。全土の半分近くを安史軍により荒らされ、終息に足掛け10年かかった。その間も、折角の蜀では段子章が、続いて、徐知道が叛乱を起し、杜甫は、蜀中を1年半も転々とした。それでも、浣花渓草堂は、西の吐蕃により、西南部の異民族西原蠻持乱を起こしたなどのため、落ち着かないため、かねてから計画していた江南に向けて再び旅に出て、持病によって、?州奉節に寓居してこの詩を作った。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
各地でこんなに盗賊が、はびこっているときなのにわたしの病はおもいのに、うろたえながら転々と江漢の地方にいまだに彷徨っているのである。
○沈綿 病にしずむさま。
○盜賊 元結の《舂陵行、序》に「道州舊四萬餘?,經賊已來,不滿四千,大半不勝賦?。」(道州は舊四萬余戸、賊を経て以来、四千に満たず、大半は賦税に勝へず。)"道州はもと四万戸余りあったが賊乱をへてこのかたは四千にたりなくなり、その大半は税金をわりつけるにたえぬものである。"とあるように逃村した者たちが、山に棲み、盗賊となったのである。
○江漢 蜀地をいう。巴江嘉陵江は西漢水の流域で、蜀の錦江、泯江など長江の上流域であることをいう。場所的には、綿州、梓州、?州、巴州、通州、嘉州、忠州、雲安、?州奉節と移動していることをいう。
歎時藥力薄,為客羸?成。
時世をなげくためか薬の効能も弱く、旅人となっているうちにすっかり肺労になりきった。
〇羸? つかれやむこと。肺労/肺癆/労咳の疾をいう。肺結核の旧称。・羸【つかれる】 力がなくなってぐったりする。力が萎えて衰える。弱る。・?【さい】 病気.労?の用語解説 - 漢方で、肺浸潤・肺結核のこと。
吾人詩家秀,博采世上名。
我我、詩人文章家は、詩家中ですぐれたものにおいては世上の著名の作家の作品を採って参考とするものである。
○博采世上名 世上の著名なるものを博く採取して参考にする。《三國志??志?孫登傳》"「博采?議,ェ刑輕賦,均息力役,以順民望。」・世上:世間。社會輿論。世事人情。
?
序文
覧道州元使君結「舂陵行」兼「賊退後示官吏作」二首、誌之日、「當天子分憂之地、效漢官良吏之目。今盗賊末息、知民疾苦、得結輩十數公、落落然參錯天下為邦伯、萬物吐気、天下少安可待矣。不意復見比興體制、微婉頓挫之辭、感而有詩、搶矧ェ軸。」
#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
歎時藥力薄,為客羸?成。吾人詩家秀,博采世上名。
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。觀呼舂陵作,?見俊哲情。
復覽賊退篇,結也實國驕B賈誼昔流慟,匡衡常引經。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。兩章對秋月,一字偕華星。
致君唐虞際,純樸憶大庭。何時降璽書,用爾為丹青。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。悽惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。涼飆振南岳,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱几臨軒楹。作詩呻吟?,K澹字?傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
#2
亂に遭いて髮 盡く白し,轉た衰えて 病 相い嬰る。
沈綿たり 盜賊の際,狼狽して江漢に行く。
時を歎じて 藥力薄く,客と為りて 羸?【るいさい】成れり。
吾人 詩家の秀にては,博く采る 世上の名。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
(序文)
同元使君舂陵行#1 序
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
覽道州元使君結《舂陵行》,兼《賊退後示官吏》作二首。
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
不意復見〈比興體制〉,〈微婉頓挫〉之詞。」
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
(本文)
#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
自分は騒乱におうて、転々とするうち、髪はすっかり白くなったし、だんだん老衰するのに病気にまとわれている。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
各地でこんなに盗賊が、はびこっているときなのにわたしの病はおもいのに、うろたえながら転々と江漢の地方にいまだに彷徨っているのである。
歎時藥力薄,為客羸?成。
時世をなげくためか薬の効能も弱く、旅人となっているうちにすっかり肺労になりきった。
吾人詩家秀,博采世上名。
我我、詩人文章家は、詩家中ですぐれたものにおいては世上の著名の作家の作品を採って参考とするものである。
#2
亂に遭いて髮 盡く白し,轉た衰えて 病 相い嬰る。
沈綿たり 盜賊の際,狼狽して江漢に行く。
時を歎じて 藥力薄く,客と為りて 羸?【るいさい】成れり。
吾人 詩家の秀にては,博く采る 世上の名。
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
觀乎舂陵作,?見俊哲情。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
複覽賊退篇,結也實國驕B
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。兩章對秋月,一字偕華星。
致君唐虞際,純樸憶大庭。何時降璽書,用爾為丹青。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。淒惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。涼飆振南嶽,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱幾臨軒楹。作詩呻吟?,墨澹字欹傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』 現代語訳と訳註解説
(本文)#3
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
觀乎舂陵作,?見俊哲情。
複覽賊退篇,結也實國驕B
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
(下し文) #3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
(現代語訳)
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
(訳注) #3
同元使君舂陵行 #3
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
粲粲元道州,前聖畏後生。
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
○粲粲 黎明のさま。
○元道州 元結をいう。
○前聖 過去の聖人、孔子をいう。
○畏後生 「論語」(子?)に「後生畏るべし」とある。後進のものも畏敬すべしという意味である。
觀乎「舂陵」作,?見俊哲情。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
〇舂陵作 「春陵行」詩をいう。「比興体制」をいう。
○俊哲情 優れて敏い情を持った人。道理の叶う非凡な人の心根。才識不凡的人。晉葛洪 《抱樸子?名實》: "佞人相汲引而柴正路, 俊哲處下位而不見知。"
複覽「賊退」篇,結也實國驕B
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
○賊退篇 「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」詩をさす。〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。
○国驕@「詩経」(文王)に「王國克生、維周之驕B」(王國に克【よ】く生ず 維れ周の驕yてい】)"王国に徳行の美盛なる多くの諸臣が生まれ、周王朝の柱石(驕jの臣となって、 王室を輔翼した。"驍ヘ幹に同じ、区別すれば牆を築くとき両傍に建てる木が幹、横にわたす木が驍ナある。ここでは国家の用心棒となることをいう。
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
○賈誼 漢の文帝の時に治安策を奉り、痛哭すべきもの三、云云といった。漢の孝文帝劉恒(紀元前202−157年)に仕えた文人賈誼(紀元前201―169年)のこと。洛陽の人。諸吉家の説に通じ、二十歳で博士となった。一年後、太中大夫すなわち内閣建議官となり、時事、法律の改革にのりだして寵任されたが、若輩にして高官についたことを重臣たちに嫉まれ、長沙王の傅に左遷された。のち呼び戻され、孝文帝の鬼神の事に関する質問に答え、弁説して夜にまで及び、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられる。その後、孝文帝の少子である梁の懐王の傅となり、まもなく三十三歳を以て死んだ。屈原を弔う文及び?(みみずく)の賦が有名。賈誼が長沙にいた時、「目鳥 其の承塵に集まる」。目鳥はふくろうに似た鳥というが、詩文のなかのみにあらわれ、その家の主人の死を予兆する不吉な鳥とされる。賈誼はその出現におびえ、「?鳥の賦」(『文選』巻一三)を著した。
李商隠 《賈生》「宣室求賢訪逐臣、賈生才調更無倫。可憐夜半虚前席、不問蒼生問鬼神。」漢の孝文帝は賢者を求めて、いったんは讒言を信じて長沙へ流謫した買誼をよびもどし、公正室で彼を召見した。賈誼の才能は群を抜いており、比べる者も全く見当らないのである。だが、憐れむべきことであった、賈誼は得意の弁舌を振って、夜半にまでいたり、帝が思わず、坐席を前のめりにさせるほどであったのであったが、質問されたのは、人民を治める政事についてではなかった、天地の陰と陽の神々についてだけだった.
賈生 李商隠 :紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集 64
○匡衡 漢の元帝の時、衛はしばしば疏を上り、政を議するに経書に附会して説をたてた。匡衡(きょう こう、生没年不詳)は、前漢の政治家。字は稚圭。東海郡承の人。家は代々農夫であり裕福ではなかったが、匡衡の代になって学問を好み、小作をして学費を捻出し、誰よりも精力的に学んだ。儒者の間では「詩経を語るな、匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」と言うようになった。
匡衡は息子の匡昌が越騎校尉であったが、酔って殺人を犯し投獄され、さらに越騎校尉の属官や匡昌の弟が彼を強奪し助け出そうとし、発覚した。匡衡は謝罪し断罪を待ったが、成帝は不問とした。しかし、丞相府において匡衡の領地を不正に増したとの疑惑が発覚し、司隷校尉王駿らにより弾劾された。成帝の詔により取り調べは止められたが丞相は罷免され、列侯を取り上げられて庶人となった。
匡衡,字稚圭,西漢大臣、經學家,東海郡承縣(今山東棗莊)人。幼家貧,而勤奮好學,曾鑿壁?光讀書。對《詩經》見解猶獨特。任少傅數年,多次上疏,陳述治國之道,參與國政,言合法義,博得漢元帝信任。後爲丞相,受封樂安侯,總理全國政務,漸與同僚有隙,漢成帝時被王尊彈劾,貶爲庶民,歸?,不數年病死。
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杜甫詩1500-917-#4-1394/2500
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
觀乎舂陵作,?見俊哲情。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
複覽賊退篇,結也實國驕B
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
道州の元結はそんなふうに人民の愁えていることを捉え、人民の憂えをそのことばつきを大きくし、縦横に表現したのである。
兩章對秋月,一字偕華星。
この「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇の作品はその高朗なること秋月と対すべく、その一字一字は雲間にかがやく華やかな星の光といっしょである。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
道州の元結は君を堯舜の際に致さんとし、三皇の~農の大庭氏の時代のような純樸な時代を思い起こさせる施政を行おうとしている。
何時降璽書,用爾為丹青。
いつになったら天子から璽書をくだしたまわって、爾、元結を丹青の宮殿に参朝する公卿とすることができようか。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。淒惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。涼飆振南嶽,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱幾臨軒楹。作詩呻吟?,墨澹字欹傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
同元使君舂陵行#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
兩章對秋月,一字偕華星。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
何時降璽書,用爾為丹青。
(下し文)
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
(現代語訳)
道州の元結はそんなふうに人民の愁えていることを捉え、人民の憂えをそのことばつきを大きくし、縦横に表現したのである。
この「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇の作品はその高朗なること秋月と対すべく、その一字一字は雲間にかがやく華やかな星の光といっしょである。
道州の元結は君を堯舜の際に致さんとし、三皇の~農の大庭氏の時代のような純樸な時代を思い起こさせる施政を行おうとしている。
いつになったら天子から璽書をくだしたまわって、爾、元結を丹青の宮殿に参朝する公卿とすることができようか。
(訳注) #4
同元使君舂陵行
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。)
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それをを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
道州の元結はそんなふうに人民の愁えていることを捉え、人民の憂えをそのことばつきを大きくし、縦横に表現したのである。
○道州 鯖をさす。
○黎庶 人民。
○浩 大きなさま。
○縱 @たてとよこ。南北と東西。 「市街地を−につらぬく大通り」A四方八方。いたるところ。B自分の思いどおりに振る舞う・こと(さま)。自由自在。C合従と連衡。縱家 @中国,戦国時代の諸子百家の一。合従と連衡の策を諸侯に説いてまわった一派。蘇秦・張儀など。→ 合従連衡。A策略を好んで用いる人。策士。
兩章對秋月,一字偕華星。
この「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇の作品はその高朗なること秋月と対すべく、その一字一字は雲間にかがやく華やかな星の光といっしょである。
〇両章 「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇。
○対秋月 高朗なことを比する。
〇偕華星 文彩が下に垂れるのに此する。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
道州の元結は君を堯舜の際に致さんとし、三皇の~農の大庭氏の時代のような純樸な時代を思い起こさせる施政を行おうとしている。
○唐虞 三皇五帝の堯舜をいう。
○純樸 まじりけなくかざりけなし、きじのまま。《韓非子.大體》:「故至安之世,法如朝露,純樸不散,心無結怨,口無煩言。」
○大庭 古代王者の名、神農氏の別号だという。三皇を伏羲、女?、神農とする。荘子外篇(3) ?篋(きょきょう)篇「昔容成氏、大庭氏、縄を錆びて之を用う、此の時の若きは、則ち至治なり、と。
《八哀詩八首(八)故右僕射相國張公九齡》「退食吟大庭,何心記榛梗。」張相国公は荊州に流されたことを契機に官署から退出して故郷にかえれば大古の大庭氏の治世を吟じて、小人どもに邪魔されたことなどはこころにとめはしなかった。
・退食 役所より退帰する。737年開元25年張九齢、荊州に流される。・大庭 大庭氏をいう、上古至治の時代。《莊子??篋》「昔者容成氏、大庭氏、伯皇氏、中央氏、・・・」とあり、三皇五帝のころの後宮の役割がしっかりとされていた時代をいう。
766年大暦元年55?-47-#2奉節-38-#2 《巻16-10 八哀詩八首(八)故右僕射相國張公九齡 -2》 杜甫index-15 杜甫<910-#2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5840
何時降璽書,用爾為丹青。
いつになったら天子から璽書をくだしたまわって、爾、元結を丹青の宮殿に参朝する公卿とすることができようか。
○降壁書 垂書は天子の印を捺した文書。漢の時地方の官吏で治績のあるものには要吉を降して勉励させた。
○用爾 爾とは元結をさす。
○為丹青 ここでは丹青とは公卿をいう。画の丹とが画材の基本であった
《巻七34 秦州雜詩二十首 其二 》「苔蘚山門古、丹青野殿空。」見ればこけの青緑が鮮やかな寺の古びた大門があり、彩色の朱色と青色が周りの景色に同化した御殿があるがさっぱり人影がなくむなしい遺跡になっている。・苔蘚 あおごけ、ぜにごけ。・山門 寺門であるが大きな門をいう。・丹青 宮殿の彩色で朱色と青色。・野殿 山野に溶け込んだ御殿。・空 人のいないこと。
秦州雜詩二十首 其二 杜甫 第1部 <255> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1214 杜甫詩 700- 369
杜甫《巻六17題李尊師松樹障子歌》「障子松林靜杳冥,憑軒忽若無丹青。」その障子屏風の描かれた松林はしずかにとおく暗くつらなって居て、軒端の欄干によって眺めると丹青の画が消えて実物ばかりがある様におもわれる。
・杳冥 はるかなかんじでうすぐらいこと。・憑軒 軒端の欄干によってながめる。・若無丹青 丹青とは画の彩色をいう、若無とは画そのものは無いようで、実物があるようだということ。
題李尊師松樹障子歌 #1 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 255
《巻十三69 引丹青》「丹青不知老將至,富貴於我如浮雲。」(丹青 知らず老の将に至らんとするを、富貴は我に於て浮雲の如し。)
丹青引 丹青は画をいうが基本の色である丹の赤と青とでかかれたことからくる、引は歌の一種である。
746廣徳2年764年―3-1 《丹青引,贈曹將軍霸》 蜀中転々 杜甫 <652> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3590 杜甫詩1000-652-912/1500 746−1
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杜甫詩1500-917-#5-1395/2500
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
觀乎舂陵作,?見俊哲情。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
複覽賊退篇,結也實國驕B
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
道州の元結はそんなふうに人民の愁えていることを捉え、人民の憂えをそのことばつきを大きくし、縦横に表現したのである。
兩章對秋月,一字偕華星。
この「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇の作品はその高朗なること秋月と対すべく、その一字一字は雲間にかがやく華やかな星の光といっしょである。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
道州の元結は君を堯舜の際に致さんとし、三皇の~農の大庭氏の時代のような純樸な時代を思い起こさせる施政を行おうとしている。
何時降璽書,用爾為丹青。
いつになったら天子から璽書をくだしたまわって、爾、元結を丹青の宮殿に参朝する公卿とすることができようか。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。
それが叶わなければ、訟獄は永久に衰退し、誰もしなくなる、どうして、徴集するに、武器、兵士をふせてかたづけるだけにとどまらないのである。
淒惻念誅求,薄斂近休明。
元結はまた心をいためながら人民が誅求されることを心配している。人民に対して税の取り立てを薄くしてやること、すなわち治平の世に近いということである。
乃知正人意,不苟飛長纓。
すなわち、これらによって元結のような正人君子の心を理解してあげる事であり、役人になったからとて長い冠のひもを伊達にひるがえして、役人の風を吹かせるのではいけない。
涼飆振南嶽,之子寵若驚。
いますずしい風が南嶽の衡山のあたりにふいて、振るっている、このとき彼は老子が言ったように寵を蒙ることや辱を受けることで心を驚動させ、大患を尊ぶことと誡めているのである。
色阻金印大,興含滄浪清。
元結の心情は、金印の大なるに対してもすすまぬ顔つきをし、かえって滄浪の水の清きに泛かびたいとの興をいだいている。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱幾臨軒楹。作詩呻吟?,墨澹字欹傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』 現代語訳と訳註解説
(本文)
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。
淒惻念誅求,薄斂近休明。
乃知正人意,不苟飛長纓。
涼飆振南嶽,之子寵若驚。
色阻金印大,興含滄浪清。
(下し文)
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
(現代語訳)
#5
それが叶わなければ、訟獄は永久に衰退し、誰もしなくなる、どうして、徴集するに、武器、兵士をふせてかたづけるだけにとどまらないのである。
元結はまた心をいためながら人民が誅求されることを心配している。人民に対して税の取り立てを薄くしてやること、すなわち治平の世に近いということである。
すなわち、これらによって元結のような正人君子の心を理解してあげる事であり、役人になったからとて長い冠のひもを伊達にひるがえして、役人の風を吹かせるのではいけない。
いますずしい風が南嶽の衡山のあたりにふいて、振るっている、このとき彼は老子が言ったように寵を蒙ることや辱を受けることで心を驚動させ、大患を尊ぶことと誡めているのである。
元結の心情は、金印の大なるに対してもすすまぬ顔つきをし、かえって滄浪の水の清きに泛かびたいとの興をいだいている。
(訳注) #5
同元使君舂陵行
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。)
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それをを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。
それが叶わなければ、訟獄は永久に衰退し、誰もしなくなる、どうして、徴集するに、武器、兵士をふせてかたづけるだけにとどまらないのである。
○獄訟 うったえごと。訴訟。
○偃 ふせて用いぬことをいう。
淒惻念誅求,薄斂近休明。
元結はまた心をいためながら人民が誅求されることを心配している。人民に対して税の取り立てを薄くしてやること、すなわち治平の世に近いということである。
○念誅求 元結が人民が官吏から誅求されることについて心配する。
○薄斂 とりたてを少なくすること。
○休明 治平の世をいう。
乃知正人意,不苟飛長纓。
すなわち、これらによって元結のような正人君子の心を理解してあげる事であり、役人になったからとて長い冠のひもを伊達にひるがえして、役人の風を吹かせるのではいけない。
○乃知 知とは作者が知ること。
○正人 正直の人。
○飛長纓 ながい冠のひもをひるがえす。役人の風を吹かすさま。
涼飆振南嶽,之子寵若驚。
いますずしい風が南嶽の衡山のあたりにふいて、振るっている、このとき彼は老子が言ったように寵を蒙ることや辱を受けることで心を驚動させ、大患を尊ぶことと誡めているのである。
○南岳 五岳、南嶽の衡山をいう、湖南にある。衡山(南嶽;1,298m湖南省衡陽市衡山県)洞庭湖より湘江を南に遡上し、英数から道州に入る。衡山は、洞庭湖と道州の中間点にある。
○之子 此子に同じ、元結をさす。
○寵若驚 老子(第十三章)に「寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、辱爲下。」(寵辱 驚くが若く。大患を貴ぶこと身の若し。何をか寵辱驚くが若しと謂う。寵を上と爲し、辱を下と爲す。)とみえる。寵は愛される事、辱はそしられること。人は寵を蒙ることや辱を受けることで心を驚動させ、大患(五色・五味・五音・畋?・珍宝など)を身を尊ぶものと同じように尊んでいる。
五岳
北岳恒山
西岳華山
中岳嵩山
東岳泰山
南岳衡山
色阻金印大,興含滄浪清。
元結の心情は、金印の大なるに対してもすすまぬ顔つきをし、かえって滄浪の水の清きに泛かびたいとの興をいだいている。
○色阻 顔色はばむ、進まぬかおつきをすること。
○金印大 大きな金印をもらう。金印の斗大の如くなるを取りて肘後に繋けん、とは晉の周の語である。「今年殺諸賊奴,取金印如斗大?肘。」
○興 遊興のこと。
○滄浪清 治浪のすんだ水に舟をうかべて去ること。元結の「思欲委符節,引竿自刺船。」(符節を委ねて、竿を引きて自ら船を刺さんと思欲す」《「賊退示官吏」(賊退きしとき官吏に示す)》などの句をさしていう。
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杜甫詩1500-917-#6-1396/2500
卷別: 卷二二二 文體: 樂府
詩題: 同元使君舂陵行
詩序: 有序:覽道州元使君結〈舂陵行〉,兼〈賊退後示官吏〉作二首。志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。不意復見比興體制,微婉頓挫之詞。」感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
作地點: ?州(山南東道 / ?州 / ?州)
及地點:棗陽 (山南東道 隨州 棗陽) 別名:舂陵
道州 (江南西道 道州 道州)
衡山 (江南西道 衡州 衡山) 別名:衡岳、南嶽、衡嶽、南岳
白帝城 (山南東道 ?州 奉節) 別名:白帝、白帝樓、公孫城
交遊人物:元結 當地交遊(山南東道 隨州 棗陽)
(序文)
同元使君舂陵行#1 序
(道州刺史元結の「舂陵行」に和してつくった詩。その序文。)
覽道州元使君結《舂陵行》,兼《賊退後示官吏》作二首。
自分は元結の《舂陵行》と《賊退きし後官吏に示す作》との二首を見てそのことについて書き記す。
志之曰:「當天子分憂之地,效漢官良吏之目。
元結はこの地方の長官として天子の憂いを分担する地位にあたり、むかし漢代の良吏などの名目にならって行ないをしている。
今盜賊未息,知民疾苦,得結輩十數公,落落然參錯天下為邦伯,萬物吐氣,天下少安,可得矣。
今日、盗賊事件はまだやむことはない、もし民のつらさをよく知っているものがおり、それが元結のような役人であって、それを十数人も得てそれを天下のあちらこちらにまぜて散らばらして長官としておいたならば、万物も生気を吐き、天下もすこしは安泰になるであろうことは、期待し得るものになる。
不意復見〈比興體制〉,〈微婉頓挫〉之詞。」
それのみではない、彼が作る詩が〈比興体制〉という手法でつくって〈微婉頓挫〉という表現法の詞を見せてくれたことは高く評価できる意外のものである。
感而有詩,搶漠ノ軸,簡知我者,不必寄元。
自分はそれでこのことについて感じてこの詩をつくって巻軸につけ加えた。そうしてこれを自分の知己によせるのである。必ずしも元結本人に寄せなくともいいつもりである。〔大暦二年?州にあっての作。〕
(元使君が《舂陵行》に同ず)#1
(序)
道州の元使君結が《舂陵行》,兼【およ】び《賊退きし後に官吏に示す》作二首を覽る。
之を志して曰く:「天子 分憂の地に當り,漢官 良吏の目に效う。
今 盜賊 未だ息まず,民の疾苦を知る,結が輩十數公を得て,落落然として 天下に參錯せしめ邦伯と為さば,萬物 氣を吐き,天下 少しく安からん。意わざりき復た「比興の體制」,「微婉 頓挫」の詞を見ん。」と。
感じて詩有り,諸を卷軸に揩オ,我を知る者に簡す,必ずしも元に寄せず。
(本文)
#2
遭亂髮盡白,轉衰病相嬰。
自分は騒乱におうて、転々とするうち、髪はすっかり白くなったし、だんだん老衰するのに病気にまとわれている。
沈綿盜賊際,狼狽江漢行。
各地でこんなに盗賊が、はびこっているときなのにわたしの病はおもいのに、うろたえながら転々と江漢の地方にいまだに彷徨っているのである。
歎時藥力薄,為客羸?成。
時世をなげくためか薬の効能も弱く、旅人となっているうちにすっかり肺労になりきった。
吾人詩家秀,博采世上名。
我我、詩人文章家は、詩家中ですぐれたものにおいては世上の著名の作家の作品を採って参考とするものである。
#2
亂に遭いて髮 盡く白し,轉た衰えて 病 相い嬰る。
沈綿たり 盜賊の際,狼狽して江漢に行く。
時を歎じて 藥力薄く,客と為りて 羸?【るいさい】成れり。
吾人 詩家の秀にては,博く采る 世上の名。
#3
粲粲元道州,前聖畏後生。
だから、それにあてはめて、元結道州刺史の粲粲として明潔なすがたはどうだ。むかしの聖人が「後生畏るべし」といったこともおもいあわされるというものだ。
觀乎舂陵作,?見俊哲情。
「舂陵の作」を観てみると「比興体制」の手法であり、忽ち英哲の非凡な情がうかがわれる。
複覽賊退篇,結也實國驕B
また「賊退後示官吏(賊退きしとき官吏に示す)」の「微婉頓挫」手法の詩篇をみると元結はじつに国家の用心棒である。
賈誼昔流慟,匡衡常引經。
むかし賈誼は天下の事について流涕働哭して、弁舌したし、、孝文帝は坐席をのりだして聴き入ったと伝えられるし、匡衝は経書を引いて政治を論じ、儒者の間では「詩経を語るな、始めると匡衡がやってくる。匡衡が詩経を語れば顎が外れる」といった。
#3
粲粲たり 元道州,前聖 後生を畏る。
舂陵の作を觀て,?【たちま】ち見る 俊哲の情。
復た賊退の篇を覧るに、結や実に国驍ネり。
賈誼 昔 流慟す、匡衡 嘗て経を引く。
#4
道州憂黎庶,詞氣浩縱。
道州の元結はそんなふうに人民の愁えていることを捉え、人民の憂えをそのことばつきを大きくし、縦横に表現したのである。
兩章對秋月,一字偕華星。
この「舂陵行」と「賊退示官吏」の二篇の作品はその高朗なること秋月と対すべく、その一字一字は雲間にかがやく華やかな星の光といっしょである。
致君唐虞際,純樸憶大庭。
道州の元結は君を堯舜の際に致さんとし、三皇の~農の大庭氏の時代のような純樸な時代を思い起こさせる施政を行おうとしている。
何時降璽書,用爾為丹青。
いつになったら天子から璽書をくだしたまわって、爾、元結を丹青の宮殿に参朝する公卿とすることができようか。
#4
道州黎庶を憂う、詞気 浩として縦横なり。
両章秋月に対す、一字華星と偕なり。』
君を唐虞の際に致さん、淳朴 大庭を憶う。
何の時か 璽書を降して、爾を用いて丹青と為さん。
#5
獄訟永衰息,豈唯偃甲兵。
それが叶わなければ、訟獄は永久に衰退し、誰もしなくなる、どうして、徴集するに、武器、兵士をふせてかたづけるだけにとどまらないのである。
淒惻念誅求,薄斂近休明。
元結はまた心をいためながら人民が誅求されることを心配している。人民に対して税の取り立てを薄くしてやること、すなわち治平の世に近いということである。
乃知正人意,不苟飛長纓。
すなわち、これらによって元結のような正人君子の心を理解してあげる事であり、役人になったからとて長い冠のひもを伊達にひるがえして、役人の風を吹かせるのではいけない。
涼飆振南嶽,之子寵若驚。
いますずしい風が南嶽の衡山のあたりにふいて、振るっている、このとき彼は老子が言ったように寵を蒙ることや辱を受けることで心を驚動させ、大患を尊ぶことと誡めているのである。
色阻金印大,興含滄浪清。
元結の心情は、金印の大なるに対してもすすまぬ顔つきをし、かえって滄浪の水の清きに泛かびたいとの興をいだいている。
#5
獄訟永く衰息せん、豈に惟だ甲兵を偃せしむるのみならんや。
悽惻 誅求を念う、薄斂は 休明に近し。
乃ち知る正人の意、筍くも長纓を飛ばさざるを。
涼飆 南岳に振う、之の子 寵 驚くが若し。
色は阻す金印の大なるに、興は含む槍浪の清きを。』
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。
自分は司馬相如のような病が多く、朝夕朝廷のことをおもうている。
肺枯?太甚,漂泊公孫城。
肺は枯れてのどはひどくかわき、こんな公孫の白帝城にぶらついている。
呼兒具紙筆,隱几臨軒楹。
自分は彼の元結の詩をみたので、こどもを呼んで紙や筆をそなえさせ、南軒のはしらのところへでて脇息によりかかり、
作詩呻吟?,K澹字?傾。
詩を作ってそれをうなりながら吟ずると、墨はうすく文字はまがってしまった。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
自分は彼の元結お心中危苦の詞に感じてこの詩を作り、どうか知己の人にきいてもらいたいとおもうところである。
#6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
『同元使君舂陵行』現代語訳と訳註解説
(本文)#6
我多長卿病,日夕思朝廷。肺枯?太甚,漂泊公孫城。
呼兒具紙筆,隱几臨軒楹。作詩呻吟?,K澹字?傾。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
(下し文) #6
我 長卿が病多し、日夕 朝廷を思う。
肺枯れて渇すること太甚なり、漂泊す公孫城。
児を呼びて紙筆を具えしめ、几に隠【よ】りて 軒楹に臨む。
詩を作る 呻吟の内、墨淡くして 字 ?傾す。
感ず 彼が危苦の詞、庶幾【こいねが】わくは知者の聞かんことを。』
(現代語訳) #6
自分は司馬相如のような病が多く、朝夕朝廷のことをおもうている。
肺は枯れてのどはひどくかわき、こんな公孫の白帝城にぶらついている。
自分は彼の元結の詩をみたので、こどもを呼んで紙や筆をそなえさせ、南軒のはしらのところへでて脇息によりかかり、
詩を作ってそれをうなりながら吟ずると、墨はうすく文字はまがってしまった。
自分は彼の元結の心中危苦の詞に感じてこの詩を作り、どうか知己の人にきいてもらいたいとおもうところである。
(訳注)
#6
我多長卿病,日夕思朝廷。
自分は司馬相如のような病が多く、朝夕朝廷のことをおもうている。
○長卿病 長卿は漢の司馬相如の字、相如は消渇の病があった。
○日夕 朝夕の意。
肺枯?太甚,漂泊公孫城。
肺は枯れてのどはひどくかわき、こんな公孫の白帝城にぶらついている。
○公孫城 白帝城をいう、公孫述の築く所。白帝城(はくていじょう)は中国重慶市奉節県の長江三峡に位置する地名。かつて新末後漢初の群雄公孫述がこの地に築いた城が白帝城と呼ばれたことが由来。永安宮ともいう。
三国時代、蜀(蜀漢)の建国者劉備が夷陵の戦いで呉に敗れ、逃れたのが白帝城。劉備は後事を諸葛亮に託し、この城で没した。『三国志演義』では、一度呉の将陸遜に夷陵追撃戦として白帝城を攻撃されるが、あらかじめ諸葛亮が仕掛けておいた石兵八陣により敗走する。「華陽国志」後漢初期、新末に、導江の卒正(蜀太守)に任じられた公孫述は、夢に神人が登場し、「八ム子糸、十二為期」と告げられた、と妻子に言った。妻子が解釈するに、「八ムはこ公の文字となり、子糸は、孫となる。これは、公孫氏が12年間皇帝でいることができるという意味なのでは?朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なりという。ましてや十二年とは!」ということで皇帝に即位することにしたという伝説をいう。また、公孫述が、瞿塘峡の小さな郷里で、白い霧が巻き上がる様が、白龍の飛翔に見え、これを吉兆として白帝と称し、年号を龍興と称した。更に、瞿塘峡の西南の隘路に兵を配して城を築いた。もとは子陽城(紫陽城)といい、この時白帝城と改称した。
呼兒具紙筆,隱几臨軒楹。
自分はおまえの詩をみたので、こどもを呼んで紙や筆をそなえさせ、南軒のはしらのところへでて脇息によりかかり、
○隠几 脇息による。
○軒楹 のき、はしら。
作詩呻吟?,K澹字?傾。
詩を作ってそれをうなりながら吟ずると、墨はうすく文字はまがってしまった。
○坤吟 やさしくぎんずる。うごめく。坤:易八卦六十四卦の一。地。おんな。こうごう。つめ。はは。やさしい。したがう。うなり吟ずる。
○敲傾 かたむく、まがる。
感彼危苦詞,庶幾知者聽。
自分は彼の元結お心中危苦の詞に感じてこの詩を作り、どうか知己の人にきいてもらいたいとおもうところである。
○危苦詞 意中のくるしめることば、元結の作をいう。
○知者 序文の「我ヲ知ル者」に同じ。