杜詩年譜 目次とものがたり杜詩年譜 目次とものがたり
杜詩年譜 (ものがたり)
一、杜詩現存的數目,把古今體合在一起,共有一千四百五十七首之多,其中五律實?有六百二十七首,幾乎?全數二分之一。(由毓E〈杜甫及其詩研究〉,文收臺灣學生書局《杜甫和他的詩》(上))
二、杜詩的分期:
杜甫的詩共計一千四百餘首。他的詩依時代先後大約可分為四個階段:
第一個階段是安祿山亂前的作品,約計一百三十餘首。這時杜甫正當壯年,頗有政治的野心,所以自抒抱負的作品最為重要。(代表作:兵車行、麗人行、奉先詠懷)
第二期是從安史之亂至入蜀前的作品,約有一百四十餘首,雖然只有五年的時間,但是因為國家遭遇空前之大難,自己也?盡百苦,流離遷徙,幾無寧日,因此杜甫以一種悲天憫人的心腸,肩負起寫實的責任,而把這個大時代的所見所聞極深刻地記敘下來,所以這一個時期的作品逼半是歌詠這次大變亂的。(代表作:三吏、三別、百憂集行、同谷七歌、春望、哀江頭、哀王孫、喜達行在所、述懷、北征、羌村)
第三期是棄官入蜀後的作品,五百四十餘首。這是他定居草堂的時期,因為生活較安定、舒服,作品所表現的風格亦較恬靜。(代表作:卜居、狂夫、客至、江村、野老、南鄰、出郭、恨別、江亭、水檻遣心)
第四期是杜甫離蜀入?,漂泊湘鄂,以至於去世的作品,約計六百餘首。此時杜甫已是五十五?的暮年,他經過了種種人情物態的變化,?盡了人生一切的艱苦,所表現的風格有感傷的意味,因此懷思古人,追悼亡友,回憶往昔的作品特多,創作的藝術也進入了更為精醇的境界。尤其是律失,已入聖域。(代表作:諸將五首、秋興八首、詠懷古跡五首、白帝城、壯遊、昔遊、遣懷、往在、?府書懷、登岳陽樓)(摘?胡傳安《詩聖杜甫對後世詩人的影響》第二章杜甫的生平及其詩歌成就,幼獅文化事業公司,一九八五年初版)
三、杜詩的體裁:
杜甫一千四百多首詩中,律詩約有九百一十首(其中五言律詩六四四首,七言律 詩一五九首,七言排律五首,五言排律一0二首),古詩四一四首(其中七言古詩一四六首,五言古詩二六八首),?句一二七首(其中七言?句九六首,五言 ?句三一首),可謂古體近体,長吟短詠,無不該備。(胡傳安《詩聖杜甫對後世詩人的影響》第二章杜甫的生平及其詩歌成就,幼獅文化事業公司,一九八五年初版)
凡 例
@本文中の年月日は、すべて中国の旧暦(太陰太陽暦)であり、数字の表記には漢数字を用いた。木文中で季節を表す際には、春は一月・二月・三月、夏は四月・五月こ八月、秋は七月・八月・九月、冬は十月・十一月・十二月とみなした。また閑月がある場合もその中に含めた。
A杜甫の年齢は数え年による。その横には、その年の。リウス暦の年月日を、『唐代の暦』(平岡武夫、同朋舎、一九u七年)によってアラビア数字で示した。ュリウス暦を、現行のグレゴリオ暦に換算するには、少なくとも杜甫のこの年譜の範囲内では、四ロを加えればよい。閏月がある年は、その月を「閏九月」のように示した。また各年の総日数を括弧内に記した。
B杜甫の年齢の下に、西暦年を括弧内にいれたが、それはある程度の誤差を含むものとする。たとえば乾元二年、四八歳の、仮に十二月十五日に成都に到着したとすれば、その 日は。リウス暦では七六〇年の一月七日にあたるが、標題では七五九年と表示されて いる。
C地名は原則として古名を用いた。古今の名称が異なるものについては、おおよその現代の地名を括弧内で示した。
D詩題の後の四桁の数宇は、清の仇兆贅注『杜詩詳注』の排列に従った作品番号。この詳注本は、おおむね制作順に並んでいるので、作品番号によっておよその制作時期がわかる。鈴木虎雄訳注の「杜甫全詩集」は詳注本を底本とするので、巻数と巻内での並ぴ順は詳注木と一致する(続国訳漢文大成「杜少陵詩集」を日本図書センターが復刻)。
Eいくつかの作品の制作時期を記したが、作品の編年には異説が多い。
F清の仇兆贅『杜詩詳注』の編年を基礎に置き、基本的にそれに依拠することの多い陳胎猷『杜甫評伝』(上海古籍出版社、一九八二〜八八年)と、さらに陳胎鰍の研究をも踏まえる『杜甫詩全訳』(韓成武・張志民、河北人民出版社、一九九七年)を参照した。なお清の楊倫『杜詩鏡詮』の編年を基本に据える張忠綱輯録の「杜甫年譜簡編」(蕭薦非主編『杜甫全集校注』第十二冊、人民文学出版社、二〇一四年)も比較参照した(これは『杜甫大辞典』二〇〇九年、山東教育出版社、所収の同氏の年譜をほぼそのまま転載したもの)。いちいち明記しなかったが、近年の研究成果も適宜取り入れた。
G人物に関しては、陳冠明・孫悼停『杜甫親巻交遊年考 外一種 杜甫親巻交游行年表』
(上海古籍出版社、二〇〇六年)を多く参照した。
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一歳 睿宗・景雲三年、太極元年、延和元年
玄宗・先天元年 壬子 |
(712.2.12〜713.1.30 -354日) |
河南の鞏縣(一説に洛陽)に生まれる。祖先発祥の地は京兆の杜陵(西安巾東南)であるが、東晋南渡の際に襄陽(湖北省)に移住し、曾祖父の杜依芸の時より洛陽の東郊に住む。遠祖に西晋の政治家、将軍、春秋学者として著名な杜預(Φ「詩人名鑑」)を仰ぐ。
祖父は、「文章四友」の一人として文才を称され、初唐期の宮廷詩人として有名な杜審言(↓「人物説明」)。官は尚書膳部員外郎(従六品上)に至る。修文館直学士にあてられ、死後、著作郎(従五品上)を追贈される。杜甫は祖父を終生誇りとする。父は杜閑。地方の中級官僚で、官は奉天県令ご兌州司馬(従五品下)等。父方の叔父の杜専、杜登は、それぞれ開封県、武康県の県尉で、地方の下級官僚。没落しつつある家門で、杜甫以後に正史に伝を逞てられる者は出なかった。母の崔氏は名門の一族で、母方の祖父母とも、三代または四代遡れば唐の王室に連なる。
幼少にして実母に死なれ、父は再婚して地方官として外勤。幼少期を洛陽の父方の叔ほのもとで過ごす。兄は夭逝し、実質的に長兄。四人の弟(穎・観・豊・占)と一人の妹は、みな継母盧氏の子。
2歳 玄宗・先天二年、開元元年 突丑
3歳 開元二年 甲寅(閏二月)
幼少のころ大病を患い、父方の叔母の看護によって一命を取りとめる。
6歳 開元五年 丁巳
このころ河南の鄙城で公孫大娘が剣器・渾脱を舞うを見る。一説に開元三年。
7歳 開元六年 戊午
詩文を作りはじめる。
9歳 開元八年 庚中
大宇』の書を習う。父も祖父も名筆家で、杜甫は痩硬の書風を好む。
14歳 開元十三年 乙丑
このころ洛陽で文人の仲間人りをし、文才を称揚される。岐王李範(容宗の第四子)、殿中省長官の崔薦(宰相崔泥の弟)の屋敷に出入りし、玄宗に寵愛される李亀年の歌をしばしば聞く。
15歳 開元十四年 丙寅
このころ身体はすこぶる壮健。
19歳 開元十八年 庚午(閏六月)
邨瑕、すなわち蒲州椅氏(山西省臨椅県)に遊ぶ。
20歳 開元十九年 辛未
呉越(江蘇省、浙江省)を漫遊し二ご二歳に至る。
足跡は江寧(南京)、蘇州、杭州、越州(紹興)、則渓(練州)、天姥山(新昌)等に及ぶ。このとき日本に渡らなかったことを後年まで残念がる。
24歳 開元二十三年 乙亥
呉越より洛陽に帰る。秋、科挙の予備試験である故郷掌県の県試、さらに洛陽の河南府の府試に合格。旧説ではこの年の春、科挙を受験するも落第。
春、科挙の進士科を受験するも落第。克州(山束省済寧市)の司馬の任にあった父を訪ね、斉趙(山東、河北省一帯)を漫遊し、足跡は任城(済寧)、叢台(郡郷)、青丘(広饒)等に及ぶ。蘇源明(Φ「詩人名鑑」)と交わり終生の友となる。
〔張九齢(Φ「詩人名鑑」)が辞めさせられ、李林甫(Φ「詩人名鑑」)が宰相。「開元の治」の衰退が始まる象徴とされる〕
引き続き、二九歳まで斉趙に遊ぶ。
斉趙に遊ぶ・蘇源明(Φ「詩人名鑑」)が?水(?州流域)で高適(Φ「詩人名鑑」)と知り合う。
引き続き、斉趙にあり。克州司馬の父のもとに行く。
このころまでに「望岳」0001「「登?州城楼」。
30歳 |
30歳 開元二十九年 辛巳(閏四月) |
741 |
洛陽に帰り、堰師県首陽山のふもとに、新宅「土婁荘(陸渾荘)」を建てる。寒食節に遠祖の杜預を祭る。
・ このころ司農寺の少卿(従四品上)の楊恰の娘と結婚。一説に三五歳のころ。以後、死ぬまで連れ添う。
・一説に杜甫五六歳時に菱州で死ぬ。
・ このころ弟の杜穎は、斉州臨邑県の主簿の任にある。
・ このころ「房兵曹胡馬」、「画鷹」。
洛陽にあり。幼少より杜甫を世話した父方の叔母(万年県君)が洛陽の仁風里で亡くなり、その墓誌を作る。
このころ、あるいは翌年ころまでに父亡くなる。
引き続き、洛陽にあり。五月、父方の祖母(祖父杜寄一昌の後妻)が亡くなって仮師に葬られ、その墓誌を作る(芭陽太君)。夏、洛陽で宮廷から放逐されたばかりの李白(Φ「詩人名鑑」)と知り合う。秋、梁末(河南省商丘市一帯)に至り、李白・高適と遊ぶ。
斉魯(河南、山東省)に遊ぶ。春、李白とエン州酒水県(山東省済寧市)に遊ぶ。夏から秋、斉州・臨溜郡(山東省済南市)の歴下などで、李ヨウ(「陪李北海宴歴下亭」呂Ξ。(Φ「詩人名鑑」)、李白、高適らと遊ぶ。
秋、エン州にゆき、李白との交情深まる。李白とともに、道教を学ぶため董道士を蒙山(山東省臨折市蒙陰県)に訪ねる。
秋末から冬初、?州(魯郡)の東の石門で李白と別れ、以後、杜甫は終生李白を慕う。洛陽へ帰る。一説に長安へ行く。
〔八月、玄宗が楊玉環を貴妃(Φ「詩人名鑑」)となす。時に玄宗六一歳、楊貴妃二七歳〕
長安にあり。汝陽王李埴(書宗の孫)、耐馬都尉の鄭潜曜(玄宗の女婿)に従い遊ぶ。
「春日憶李白」、「送孔巣父謝病帰遊江東、兼呈李白」(一説に二首ともに翌年の作)。このころ、またはこの年以後「飲中八仙歌」。
長安にあり。天子が主催する制科(科挙の臨時試験)を受験。李林甫の策謀で、受験者は元結なども含め全貝が落第。杜甫の科挙受験は十二、三年ぶり。これ以後、杜甫が科挙を受験した形跡はなく、朝廷に賦を献じ、高位の知人や有力者に詩を贈って求職活動に奔走。
長安にあり。
長安にあり。安西四鎮節度使の高仙芝が人朝したとき、幕僚職への抜擢を期待して「高都護聴馬行」宕一君を作りその馬を褒める。このころまたは前年、偃師に帰省したとき、たびたび河南尹(洛陽の長官)草済の訪問を受ける。
〔府兵制が廃止される〕
長安に戻る。鄭潜曜(玄宗の女婿)の依頼を受け、公主の母、皇甫淑妃の碑文を作る。張珀(Φ「詩人名鑑」)(宰相張説の次男で玄宗の女婿)に詩を贈り、引き立てを求める。
河南尹(洛陽長官)から尚書左丞(正四品上)に移り長安勤務となった草済に「贈草左丞丈済」品を贈り、引き立てを求める。「奉贈葦左丞丈二十二韻」
はやや後の作。広文館博士の鄭虔(Φ「詩人名鑑」)と知り合い、終生の友となる。仕官のための制度に基づき「鵬の賦」を朝廷の延恩甑(投書函)に奉るも沙汰なし。大晦日をいとこの杜位(宰相李林甫の娘婿。(Φ「詩人名鑑」)の家で過ごす(「杜位宅守歳」)。説に翌年。
このころ長子の宗文が生まれる。幼名は熊児。七歳から書きはじめた詩文はこのころまでに5余篇。後年そのほとんどを破棄する。
長安にあり。春以降、三大礼の賦「朝献太清宮賦」「朝享太廟賦」「有事於南郊賦」を延恩甑に投じ、これが崔国輔(Φ「詩人名鑑」)と于体烈に賞賛されて玄宗の眼にとまり、集賢院待制(集賢院に待機して皇帝の下問を待つ)を命ぜらる。
[剣南節度使の鮮通がチベット・ビルマ系の南詔国(雲南地方)の攻撃に大敗。楊国忠(Φ「詩人名鑑」)は敗戦を隠蔽し、農民を強制的に徴兵する〕
このころ、または翌年に「兵車行」を作る。秋、椎疾(マラリア)を病む。
〔高仙芝の率いる唐軍が、タラス川の戦いでアッバース朝のイスラム軍に大敗〕
41歳 |
41歳 天宝十一載 壬辰(閏三月) |
752 |
長安にあり。前年の集賢院待制をうけて中書試が行われ合格(一説に中書試は前年)。任官資格の「出身」を与えられ「候選三年」(任官への三年待機)に入る。暮春しばらく洛陽に帰る。諌議大夫の鄭審(Φ「詩人名鑑」)に詩を贈り、引き立てを求める。鄭審とは後年、江陵にて交遊。秋、高適・酵拠(↓「人物説明」)・岑参(Φ「詩人名鑑」)ら長安の慈恩寺塔(大雁塔)に登り詩を作る。おくれて儲光義、杜甫も登り「同諸公登慈恩寺塔」0011を作る。このころ「貧交
行」呂否を作る。
〔李林甫死す。かわって楊貴妃の縁者にあたる楊国忠か宰相となる〕
長安にあり。京兆尹(長安の長官)の鮮于仲通に詩を贈り(「奉贈鮮于京兆二十韻」呂六六)引き立てを求める。一説に前年のこと。春、楊貴妃の姉と宰相楊国忠の淫乱を風刺する「麗人行」§七八。夏、広文館博土の鄭虔と、何将軍の別荘に遊び「陪鄭広文、遊何将軍山林十首」。高適が河西節度使班舒翰の書記として涼州武威(甘粛省)に赴くのを見送り「送高三十五書記十五韻」を作る。一説に前年のこと。
〔第十一次遣唐使が到着〕
43歳 |
43歳 天宝十三載 甲午(閏十一月) |
754 |
長安にあり。家族を洛陽から呼び寄せ、長安城の南隣の古の下杜城(西安市杜城村)に居を構える。それまでは長安城内に寄寓し、時折洛陽に帰省。春、再び何将軍の別荘に遊び「重過何氏五首」。
「酔時歌」呂きを作って、広文館博士の鄭虔に贈る。
夏、下杜城の居所に唐の宗室の李炎の訪問を受ける(「夏日李公見訪」呂菩。岑参兄弟と長安南西の景勝地の渓岐湖で舟遊びして「美陂行」。この時期、河西節度使の班舒翰の幕僚職を求める(「投贈併舒開府翰二十韻」呂九六)。秋、長安一帯が記録的な長雨。
物価が騰貴して生計が苫しく、妻子を奉先県の県令楊慧(妻の親戚)のもとにあずける。おそらくこの年の秋、次男の宗武生まれる。一説に前年の秋。このころまでに娘は三人。秋、同族の杜済(Φ「詩人名鑑」)の家を訪間し「示従孫済」O101の詩を作る。冬、「封西岳賦」を延恩断に投ずるも沙汰なし。おそらくこの年の年末、雍疾が癒える。
春から夏、長安にあり。宰相の葦見素に詩を贈り、引き立てを求める(「上草左相二十韻」Ξ亘。秋七月、妻子を訪ねて長安より奉先県に赴き、九月の重陽の節句過ぎまで滞在。さらに白水県に行き、母方のおじの崔項(白水県令)の家を訪ねる。冬十月、長安に帰る。任官待機の「候選三年」が明け、同州馮矧郡河西県(映西省澗南市合陽県)の尉を授けられるも就かず。改めて東宮づきの右衛率府兵曹参軍(従八品下)に任ぜられる(「官定後戯贈」)。冬、安禄山の乱勃発の十一月九日以前に、再び奉先県に妻子を訪ねる「自京赴奉先県詠懐五百字」)。飢えのため幼女が死んでいた。
〔十一月九日、安禄山が幽州(北京)で挙兵。十二月十二日、洛陽陥落。玄宗は班舒翰に、洛陽から長安ヘ入る中間点の要地、謐関を守らせる〕
奉先県で家族と越年。あるいは年内に長安に帰り正月を一人長安で過ごす。安史の乱の直前または直後に安禄山の不穏な動きを風刺する「後出塞五首」を作る。
45歳 |
45歳 玄宗・天宝十五載、粛宗・至徳元載 丙申 |
756 |
〔正月、安禄山、洛陽で大燕皇帝を称し、国号を燕と定む〕
春、長安にあり。実際に右衛率府兵曹参軍の職に就くのはこの春か。初夏、家族を避難させるため再び奉先県に赴き、五月、奉先県から家族を連れて白水県の役人で母方のおじの崔氏に身を寄せる。
〔六月九日、滝関で併舒翰が敗れる。十三日、玄宗らは長安から逃げ、数日後には反乱軍が長安を占領〕
白水県を離れ、避難民に混じり、遠い親戚のE休一家と北に逃げる。白水県の東北六十里の彭箭占城を過ぎる。坊州(黄陵県)の周家注(通説では同家窪)の孫宰の家でしばらく匿話になる。む月中には剋州三川県に至る。家族を三川県の禿村に住まわせる。通説は尤村を部州洛交県(陝西省富県)とするが確証なし。
〔ヒ月十一一目、皇太子李亨が霊武(寧夏回族自治区銀川市の南)で即位し、粛宗皇帝(Φ「詩人名鑑」)。改元して至徳元載〕
跡州で反乱軍側に捕らえられ、長安に連れ戻され軟禁される。通説では部州よりさらに北に向かい、延州(延安)経由で蘆子関(映西省延安市の西北)を出て、粛宗の行在所のある霊武に向かう途中、反乱軍に捕らえられたとするが、億測の域を出ない。長安城内での行動は、官位が低かったためか自由。八月、部州の妻子を想う詩「月夜」を作る。
十月、宰相房カン(Φ「詩人名鑑」)が指揮して長安奪還を目指すも官軍は相次いで敗北、「悲陳陶」、「悲青坂」を作る。
〔粛宗の行在所が霊武から、九月二十五日、順化に至り、十月三日、彭原に至る。十一月、永王李燐が四道節度都使を領して江陵に軍を置き、李白が幕府の書記として招かれる。十二月、永王李燐、兄の粛宗と対立し反乱軍とされる〕
〔一月、安禄山がfの安慶緒らに暗殺され、安慶緒が即位〕
反乱軍占領万の長安城内にあり。「哀王孫」前年の作)、「哀江頭」、「春望」。また子や弟妹の無事を案ずる詩を作る。
〔二月、粛宗の行在所が彭原より鳳翔(えいにし陝西省宝鶏巾東北部)に移る。これ以後、長安を脱出して鳳翔の唐軍に帰する者が日夜絶えず。高適、来礪、草妙の軍が永王燐を討つ。三月、李白が河陽の獄につながれ、翌年存、夜郎に流される〕
四月、長安城西門の金光門より脱出して鳳翔の行在所へ向かう。「自京京至鳳翔、喜達行在所」。五月、鳳翔の行在所で左拾遺(従八品上)を授けられる。敗軍の責めを負った元宰相の房垣を弁護して、粛宗の逆鱗に触れる。尚書省の刑部・御史台・代理寺の三司合同の殼高司法会議にかけられる。死刑の可能性もあったが、宰相張鎬・御史大夫葦防て崔光
遠・顔真卿等が弁護し許される。六月一日、許されて粛宗に感謝状を奉る。左拾遺の職に復す。六月十二日、左拾遺の職務として杜甫ら五人は詩人の岑参を諌官の右補闘に推薦。閏八月、帰省(謹慎処分)を命じられ家族のいる部州の差村へ向かう(「北征」)。
禿村で家族と再会を果たし「姜村三首」を作る。
〔九月一一十八目、元帥広平王李淑(後の代宗)は李嗣業・郭子儀・王思礼らと、ウイグルや西域兵の力を借り、長安を回復。ついで脂月、洛陽を回復〕
十月、許しが出て、部州から鳳翔に呼び戻され、左恰遺の職に復す。詳注はじめ通説では、十一月に部州から長安へ(家族帯同で)呼び戻されたとする。十月一。十三日、粛宗が鳳翔より長安に人京するのに従って長安に戻る。長安では城内東南隅の曲江池の西あたりに居す(長安での杜甫の居所については求職活動期、洛陽から家族を呼び寄せた時期、反乱軍占領下での時期、左拾遺勤務期で、それぞれ異説が多い)。十二月、親友の鄭虔が反乱軍政府に什えたかどで瓶誦されるに際して「送鄭十八虔、腿台州司戸、傷其臨老陥賊之故、闘為面別、情見於詩」を作る。
〔十二月、太上皇(玄宗)が成都より長安に帰る〕
引き続き長安にて左洽遺の職にあり。天子側近の供奉官としての朝廷生活を詩に描く。春、中書舎人の賀至の詩に王維(Φ「詩人名鑑」)・岑参らと唱和(「奉和買至舎人早朝大明宮」。
三月、費至が左遷され(「送貧閣老出汝州」)、房趙派排除の動き。このころ「曲江二首」、「曲江対酒」翌完等の虚無的な詩を作る。六月、房?、厳武(Φ「詩人名鑑」)が左遷され、同じく房趙派の杜甫も華州(陝西省澗南巾華州区)の司功参軍に左遷される。「至徳二載、甫自京金光門出、間道帰鳳翔、……因出此門、有悲往事」を作る。秋九月、藍田県に行き「九日藍田崔氏荘」9Ξ四を作る。冬、華州から洛陽を経て故郷僣師県の陸渾荘へ帰省。
春、洛陽から華州の任に戻る。華州への帰路、旧友の衛八処土に会い「贈衛八処士」を作る。帰路で見聞した悲惨な戦時微発のありさまをもとに三吏三別(「新安吏」、「滝関吏」、「石壕吏」、「新婚別」、「垂老別」、「無家別」)を作る。
〔三月、史思明が安慶緒を殺し、四月、大燕皇帝に即位し、九月、洛陽を落とす。夏、長安一帯が旱魅にあい、飢饉が起こり、物価が騰貴。六月、右僕射の裴星が成都尹・剣南節度副大使・本道観察使となる〕
七月、華州の官を辞す。一説に罷免される。家族を(末弟の杜占も)引き連れ秦州へ旅立つ。以後、長安、洛陽へは一一度と戻らず。辞官(一説に免官)の背景と経緯、秦州行きの動機については異説が多い。秦州では城内に住む。一説に、現地の東梱谷で隠遁生活を送る親戚杜佐の草堂に住む。秦州へ流されていた長安大雲寺の賛上人と交流し(「西枝村尋置草堂地、夜宿賛公上室二首」)、ともに隠遁にふさわしい土地を捜すも得ず。このころ「夢李白二首」、「天末懐李白」等の李白を想う詩を作る。
李白は夜郎(貴州省桐梓県)に駈譲されるも、三月、長江を遡って菱州まで来たところで赦免されたことを杜甫は知らず。「佳人」、「秦州雑詩二十首」、「‥月夜憶舎弟」、「送遠」を作る。十月、秦州を去り、南の同谷(甘粛省成県)へ向かう。
秦州出発から同谷まで、連作十二首の紀行詩を作る。
同谷では、栗亭から鳳凰村に移り住み、ひと月も滞在せず。十一月、「乾元中、寓居同谷県作歌七首」S一六四〜2一舌を作る。十二月一日、同谷からさらに南へ、蜀道の難所を越え成都へ向かう。同谷出発から成都到着まで、十二首の紀行詩を作る。年末、成都に到着。当初は洸花渓のほとりの草堂寺に住む。
49歳 |
49歳 乾元三年、上元元年 庚子(閏四月) |
760 元桔「篋中集」を編 |
春、おそらくは成都尹(長官)で剣南節度使の裴箆の援助のもと、成都の西の郊外の涜花渓のほとりにいわゆる洗花草堂を営む。親戚や近在の役人らの援助も得て、暮春にはいちおう落成(「堂成」9器一)。春、近くの諸葛亮の廟に詣で「蜀相」を作る。
〔裴星が長安に帰り、尚書右僕射となる。三月、李若幽(一説に杜甫の母方の遠縁)がその後任となる。四月、名将李光弼が史思明を河陽に破る〕
夏、草堂で「江村」、「恨別」(一説に秋の作)を作る。
〔八月、房?が晋州刺史から漢州刺史に改められる〕
秋、彭州剌史の高適に生計の援助を求める。さらに高適が蜀州刺史として赴任して来たので会いに行く。
さらに蜀州東南の新津に到り、裴迪(王維の友人)と新津寺に遊ぶ。冬、成都にあり。
50歳 |
50歳 ‐乾元四年 辛丑 |
761 王維没。 |
正月、また新津に行くも裴迪と会えず。二月、成都草堂に帰る。春、「客至」、「春夜喜雨」、「江亭」等を作る。
〔二月、李若幽にかわり、崔光遠が成都尹・西川節度使。三月、史朝義が父の史思明を殺して即位。四月、梓州剌史の段子璋、反す。五月、崔光遠は李臭と連合して乱を平定し、高適も参軍〕
秋、生計の援助を求め蜀州青城に行くも、当てが外れ成都に帰る。秋、蜀州唐興県に行く。唐興県令の王潜に詩を書いて援助を求める(「敬簡王明府」)。
秋八月、人風で草堂の屋根が吹き飛ばされて雨漏りし「茅屋為秋風所破歌」を作る。成都少尹(副長官)の徐知道が贈物をもって草堂を訪れる(「徐九少尹見過」心五坦)。徐知道は翌年、成都で反乱を起こす。冬、王侍御(王諭)が、成都尹(長官)を臨時に代行していた高適を伴い草堂を訪ねる(「王竟携酒、高亦同過」)。十二月、杜甫最大の支援者となる友人の厳武が、この地方の行政・軍事の最高長官(成都尹、剣南節度使)となる。成都尹代行の高適は蜀州刺史の任に戻る。杜柑はこのとき蜀州にいて高適の帰りを迎える。成都に帰る。李白の消息がないことを心配し「不見」を作る。翌年、李白死ぬ。
51歳 |
51歳 代宗・宝応元年 壬寅 |
762 李白没。 |
春〜夏、草堂にあり。春、厳武が草堂を訪れる
(「厳中丞任駕見過」望晶)。厳武との交流が盛ん。厳武は着任当初、杜甫の献策(「説早」)も取り入れ比較的善政を行う。
〔四月、太上皇(玄宗)崩御。ついで粛宗崩御し、代宗が即位。この年、代宗は改元せず〕
五月、厳武が再ぴ草堂を訪れる(「厳公仲夏任駕草堂、兼携酒饌」i否)。瞰武に招かれ、郊外の草堂から成都城内に赴く。六月、代宗の治世となり、房壇派への圧迫もなくなって厳武が長安に召しかえされる。
七月、厳武を綿州(四川省綿陽市)まで送り、奉済駅で別れる。「奉済駅、重送厳公四韻」を作る。
〔七月、高適が成都尹、西川節度使となる。翌年十二月まで〕
徐知道が成都で乱を起こす。成都への帰路を阻まれ、綿州で洽江東津の公館に住む。漢中王李璃
(Φ「
詩人名鑑」
)を頼って梓州(四川省三台県)に行く。
秋末から冬の初め、成都の草堂の家族を、梓州に連れてくる。
〔十月、唐とウイグルの連合軍が、再ぴ東都洛陽を奪還す。
ウイグルは報償として洛陽の掠奪を許される〕
仲冬十一月、梓州の東南の射洪県に初唐の詩人陳子昂(↓「人物説明」)ゆかりの地を訪ねる(「冬到金華山観、因得故拾遺陳公学堂遺跡」2八七)。生計の資を求め射洪県から、さらに東南の通泉県に行く。このころ三峡を下り東遊せんとの気持ちが起こる。冬末、梓州に帰る。
〔十二月、剣南西山の諸州がみな吐蕃(チペット)に占領される〕
52歳 |
52歳 宝応二年、広徳元年 突卯(閏正月) |
763 |
【763.1.19?764.2.6. -384日】七月、廣徳と改元)
正月、梓州にあり。
〔正月、史朝義が自殺し、七年三カ月にわたる安史の乱が終結〕
この報を聞き狂喜して、洛陽の故郷に向かわんと歌い「聞官軍収河南河北」0601を作る。また呉越に遊ばんとの思いも起こる。
春、梓州西北の綿州?城県に行く。また梓州近辺の牛頭寺などの名利に遊ぶ。塩亭県を経て聞州(四川省聞中市) に行き、また梓州に帰る。綿州さらに漢州に至る(漢州刺史の房靖が特進刑部尚書として都に呼び戻される)。房?が去った後、新任の漢州刺史王氏と綿州刺史杜済と房公地で飲む。晩春、清城を経て、梓州に帰る。夏、梓州にあり。夏から秋、新任の梓州刺史章彝
(Φ「
詩人名鑑」
)との交流が盛ん。
〔七月、河西、隴右の地が吐蕃に領有される。八月四日、房?が帰路の?州で死ぬ。厳武、長安で京兆尹となる。ついで吏部侍即を兼ねる〕
九月中旬、?州に行き房?を祭る。王?州刺史のため、代宗に上奏する吐蕃政策を代作する。晩秋、「王?州筵、奉酬十一舅惜別之作」0673を作る。
〔十月、長安が吐蕃に占拠され、代宗は陝州に避難。十二月、長安に戻る〕
十月、十一月、引き続き?州にあり。?州では王刺史に歓待される。
〔十二月、成都の西北の松.維.保三州が吐蕃に占領される。〕
十二月、妻が手紙で娘の病を告げたため、急ぎ三カ月ぶりに?州から梓州に帰る。蜀を去り長江を下る準備が整い、梓州刺史の章彜が盛大な送別の宴を開く。(杜甫は章葬から厚遇されたが、章彜の横暴を暗に批判する詩も作る)。弟の杜占を成都の草堂の点検に帰らせる(「舎弟占帰草堂検校、聊示此詩」0696)。冬末、家族を伴い梓州から聞州へ移り越年。このころ「去蜀」0823を作る(詳注など通説では永泰元年夏五月成都の作)。
53歳 |
53歳 広徳二年 甲辰 |
【764.2.7〜765.1.25 -354日】 |
〔正月、剣南東川、西川が一道に合併され、厳武が剣南節度使、成都尹となる。西川節度使の高適は都へ召しかえされる〕
?州にあり。「?山歌」0701「?水歌」0702等を作る。長安の京兆功曹参軍(正七品下)に召されるも就かず(「奉寄別馬巴州」0725の原注)。二月、厳武の成都尹(長官)再任を聞き、蜀を去る計画を取りやめて成都に戻る。?州を去る前、房?の墓で「別房太尉墓」0731を作る。
〔二月、厳武は成都に章彜を召す。厳武の意にそわぬ所があり、章彜を殺す〕
春から夏、成都郊外の浣花草堂にあり。「登楼」0746、「絶句二首」0750, 0751を作る。六月、厳武の幕府で節度参謀となる。詳注をはじめ通説では、同時に中央官の形式的肩書き「検校尚書工部員外部」を授けられる。杜甫は草堂を離れ、単身成都城内に住まう。このころ「丹青引」0768、「韋諷録事宅観曹将軍画馬図歌」0769、「憶昔二首」0772、0773、「宿府」0778を作る。幕史の生活を厭う気持ちが強くなり、休暇をもらい草堂に帰る。「倦夜」0782を作る。任華、成都に来て杜甫に詩を贈る (杜甫を絶賛するその詩は偽作説あり)。弟の杜頴が草堂を訪れ、杜観、杜豊、妹の健在の消息をもたらし、再び斉州(済南市)に帰る。城内で幕吏の生活にもどる。「奉観厳鄭公庁事眠山?江画図十韻」0791を作る。初冬、再び休暇をもらって草堂に帰り、また城内にもどる。
54歳 |
54歳 永泰元年 乙巳 (閏十月) |
【765.1.26.〜766.2.13. -384日】 |
・正月、永泰と改元)
正月三日、草堂に帰り節度参謀の職を辞す。その後も厳武との関係は密接(陳尚君の説ではこの直後に長安で就任すべき検校尚書工部員外邸が朝廷から授けられる)。
正月、友人の高適死す。四月三十日、杜甫の最大の支援者で友人の厳武が死す。
〔西山都知兵馬使の崔?と士卒らが、厳武の後任として王崇俊を推戴する。崔?は厳武お気に入りの将軍。五月、郭英乂が厳武の後任となり成都に至る。郭英乂はその間の事情を知って王崇俊を殺し、崔?も殺そうと謀る〕
五月初めのころ草堂を去り、岷江(?江) を下りはじめる(陳尚君説では、朝廷で工部員外部の官に就くため、厳武の死ぬ前に草堂を去る)。嘉州(楽山市)に下り、健為を過ぎ、五月末から六月初め戎州(宜賓市)に至り、長江に入る。瀘州を経て、さらに長江を下り渝州(重慶市)に至る。渝州で厳六侍御を幾日か待つも来たらず。そのまま忠州(重慶市忠県) に下り、秋を迎える。初秋七月(聞一多説では九月)、雲安(重慶市雲陽県)に至って糖尿の病に伏せ、雲安で年を越す。この年は閏十月があり、初秋七月から翌年暮春三月に?州に下るまで、雲安には実質九カ月以上の滞在となる。思いがけない長患いで、長安で工部員外郎(従六品上) に就く可能性が少なくなる。
〔閏十月、崔?が成都尹・剣南節度使の郭英乂を殺す。柏茂琳、楊子琳等が挙兵して崔?を討ち、蜀中大いに乱れる〕
55歳 |
55歳 永泰二年、大層元年 丙午 |
【766.2.14.?767.2.3. 355日】十一月、大暦と改元 |
春、雲安にあり。雲安県の長官厳氏の水闇に住む。晩春三月、?州に下る。白帝山の西閣(即ち客堂) に住む。一説に、はじめ客堂に住み、秋に西閣に移る。
このころ「白帝城最高楼」0879、「八陣図」0881、「古柏行」0938を作る。?州刺史は王崟で旧知の間柄。杜甫を手厚く過す。夏には王崟の後任の代理として、荊州節度使の高官である崔崖卿が江陵から来る。崖卿は杜南の母方の親戚。自宅で鶏を飼い、秋にはチシャ (レ
タス) を作る。秋、「返照」0925、「夜」0968、「吹笛」0971、「西閣夜」0978、「秋興八首」0985−0992、「詠懐古跡、五首」0993?0997等を作る。
晩秋から初冬、柏茂琳(=柏貞節⇒
(Φ「
詩人名鑑」
)) が牽州?州刺史、防禦使として着任。柏茂琳は杜甫に月俸を与えるなど援助を惜しまず、杜甫も柏茂琳の宴席に連なって詩の花を添え、上奏文の代作もする。冬、白帝山の西閣で「閣夜」1040を作る。また西閣(一説に赤甲)の住まいで「縛鶏行」1045を作る(簡錦松の説では、この時期は西閣と赤甲の両方に寝泊まりしていた)。?州期は創作活動が非常に盛ん。多方面にわたる多くの詩を残す。
この時期、杜甫は上京して工部員外郎に就く可能性がほぼなくなったことを知りつつも、まだ夢を棄てきれないでいる。
56歳 |
56歳 大暦二年 丁未 |
【762.2.4.?767.1.23. -354日】 |
?州にあり。晩春、弟の杜観が?州に来る。夏、杜観は藍田 (長安東南郊)で新妻を娶り、冬には江陵に住む。
一説に、春、西閥より赤甲に居を移す。簡錦松の説では、?州の早い時期から赤甲(子陽山南麓)に住み、西閣にもしばしば宿泊していたとする。晩春三月、?西に居を移す。?西は白帝城の東の東?水(草堂河)の西岸(?西の居は、東?水が「>」字型に蛇行する一段の角の内側にあったので、北岸ともいえる)。?西の居宅は、初めは賃借りし、後に四十畝の果樹園とともに購入。?州では、現地少数民族の柏夷(別本に伯夷)、辛秀、信行、阿段、阿稽らが使用人として杜甫の農的生活を支える。家まわりの畑で野菜作りをし、蜜柑作りの経営管理を始める。同時に東屯の地に自分の稲田を持ち、米作りの経営管理を始める(一説に、柏茂琳が杜甫に?西宅、果樹園四十畝を供与し、東屯の百頃の公田を管理させたとする)。
夏、虎を防ぐための柵を修理する。
秋、おそらくは側室を娶る。一説に、妻の楊夫人が亡くなったので現地の婦人と再婚し、《孟倉曹?趾領新酒?二物滿器見遺老夫(卷二○(四)一七五八)》1203では「理生那免俗?方法報山妻。」"山妻"と称している。元結の政府の圧政を批判する詩に感動し「同元使君春陵行」1154を作る。このころ左耳が聞こえず「耳聾」1232、そして、歯は半分が抜ける「復陰」1285。翌年には手がふるえ「元日示宗武」1288、にみえる。
九月九日の重陽節に「登高」1213、を作ったとき断酒を表明。
秋、稲田の収穫のために?西より東屯に居を移す「自?西荊扉且移居東屯茅屋四首」1187?1190。演西の居宅は、姻戚(おそらく娘婿)の呉郎に貸し与える。「又呈墨呉郎」1207を作る。
十月十九日、?州別駕の屋敷で公孫大娘の弟子の李十二娘の剣器の舞を見る「観公孫大娘弟子舞剣器行 竝序」1262。杜甫は六歳(一説に四歳)のころ公孫大娘の舞を見ている。
蜜柑を収穫する。
57歳 |
57歳 大層三年 戊申(閏六月) |
【768.1.24.−769.2.10. -384日】 |
南卿兄に演西の果樹園四十畝を贈与する。正月中旬、家族を引き連れキ州を去る。巫山県、峡州(湖北省宜昌市)、宜都、松滋を経て、二月(通説では三月)、江陵(荊州市)に至る。三峡を抜け出て江陵に下る途次「旅夜香焼」0836を作る(旧説は永泰元年秋の忠州の作)。旧知の鄭審、李之芳(⇒「人物説明」)と交流して、「書堂飲既、夜復遊李尚書下馬月下、賦絶句」1311等の詩の応酬。李之芳はこの年の秋、江陵で死ぬ。江陵の最高権力者、衛伯玉
(Φ「
詩人名鑑」
)からの厚遇は得られず。このころ「短歌行、贈王郎司直」1318を作る。家族をしばらく当陽の弟杜観の居所にあずける。一時期金策のため武陵に行く。秋、家族を伴って江陵を去り、南の公安に至る。年末に公安を去り、劉郎浦(石首市)を経て岳州(岳陽市)に到って越年。「登岳陽楼」1363を作る。
58歳 |
58歳 大層四年 己酉 |
【769.2.11.−770.1.30. -355日】 |
正月、岳州を去り、潭州(長沙市) に向かう。洞庭湖に入り、青草湖に泊し、湘水(湘江) を遡り、白沙駅に宿る。喬口、鋼官渚を過ぎ、新康、双楓浦を経て、清明節(この年は二月二十二日) 頃、潭州に至る。引き続き左耳が聞こえず。右手が麻痺し、左手で字を書く。岳麓山を訪ねる。韋之晋を頼るために潭州から南下して衡州(衡陽市)へ向かう。白馬潭、鑿石浦、津口、空霊岸、花石戍、晩洲を経る。次に衡山県境に入り、南岳衡山を望見し、ようやく衡州に至る。
韋之晋は既に潭州刺史に転任しており、まもなく四月に死ぬ。その訃報を衡州で聞く。
〔七月、韋之普の後任として崔?が、潭州刺史・湖南都団練観察処置使となり、善政を行う。杜南は崔?を高く評価〕
夏、潭州に引き返し、潭州で越年。
この年の秋、「江漢」1419を作る(異説多し)。潭州では、下船して江閣で過ごす。また船上にも城内にも住む。
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59歳 大暦五年 庚成 |
【770.2.1.−771.1.20. -354日】 |
春、潭州にあり。かつて玄宗に寵愛された歌手の李亀年に会い「江南逢李亀年」1440を作る。この年は三月三日にあたる小寒食を、船中で過ごし「小寒食舟中作」1441を作る。翌日、岳麓山に遊ぶ。
〔夏四月、湖南兵馬使の臧?が潭州で乱を起こし、潭州刺史の崔?が殺される〕
潭州で起こった臧?の反乱を避けて衡州に赴く。幼児を埋葬する(1445、1457)。一説に、三年前、?州で迎えた側室(または後妻)の子とする。衡州から耒水を遡って?州に向かい、?州刺史代行の崔偉を頼ろうとする。耒陽(衡陽市の南)の方田駅に至り洪水に遭う。五日間船が進まず食料を欠くも、耒陽県令の聶氏より酒肉を送られ難を脱す。
六月、臧?の乱がおさまり、?州には向かわず、衡州から潭州に帰る。
秋、潭州にあり。漢陽(湖北省武漢市)から嚢陽(湖北省襄陽市)に行き、さらに長安へ帰ろうと思って晩秋に潭州を発つ。通説では、冬、潭州と岳州の間で客死し、絶筆は「風疾、舟中伏枕書懐三十六韻、奉呈湖南親友」1457。一説に岳州手前の汨羅江の一段。
なお唐代から北宋までは、杜甫は耒陽で死んだとされた。柩は岳州に運ばれ、正式に郷里に葬られるまで岳州に安置。杜甫の墓は耒陽、昌江(平江)、岳陽、河南の偃師、鞏縣のほか、何カ所かにある。杜甫がいつ、どこで死んだかはいまだに定説はない。
―― 大層十年 乙卯
(775.2.5―776.1.25 355日)
正妻の楊夫人は四九歳で死んだが、その生年と没年は不明。もしも楊夫人が結婚時に当時の一般的な結婚年齢の一五歳ころだったとすれば、このころ楊夫人が死んだことになる。またその生年は七二七年となる。
また一説に楊夫人が杜甫五六歳時に?州で死んだとすれば、その生年は七一九年となる。
―― 憲宗・元和八年 突巳
(813.2.5.?814.1.24. 354日)
次男の宗武の子の杜嗣業が、祖父杜甫の柩を、岳州(一説に耒陽)から洛陽の東、偃師縣の首陽山のふもとに移す(虚構説あり)。途中、杜嗣業が江陵を通過したとき、江陵府士曹参軍に左遷されていた元槇に墓誌銘を依頼する。