杜詩年譜
年附を基本に語順検索
作時年と年齢による検索
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研究テーマ
杜甫の作品・訳注解説・仇兆鰲の訳注・紀頌之のブログを整理し検索し、やすくする。 | |
都市の作品ごとの訳注解説を基本とし、できるだけシリーズでとらえることで杜甫の心情が理解できるようにする。 | |
できるだけわかりやすい明瞭表現とする。 |
・ 李白との出会い
・ 遣興に関する考察
・ 安禄山の反乱、その時の杜甫
・ 房カンに関する杜甫の詩
・ 奉謝口敕放三司推問状
・ 「舎弟」兄弟に関する詩について
・ 朝廷内での疎外感
・ 官を辞す と乾元元年華州試進士策問五首
・ 杜詩における白髪の表現について
・ 成都での住まい環境について
・ 成都浣花渓草堂の建設について。
・ 心の穏やかな浪漫生活
・ 元桔「比興法」と杜甫詩
・ キ州での住まい環境について
・ 杜甫詩 月について
・ 西閣について
・ 杜甫詩の中の農業・農業経営
・ 家族への思い
・ 人に対する情
・ 王維との出会い
・ 岑參との出会い
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唐に着手金を支払う余裕がなく、肅宗は仕方なく回?に財物と女性を略奪してもよいという取り決めで援軍を承諾した。このことは、反乱軍の支配地を回復すれば、住民にとって、同時に、凌辱、略奪、収奪の始まりを覚悟しなければいけないことであった。しかし、反乱軍との戦いに住民としては、悪貨によるインフレに加え、回復、解放が悪夢を呼ぶのであるから、どちらの軍に味方したくない状況であった。こうしたこともあって、廣平王李俶、(後の代宗)により長安回復後の略奪は是が非でも阻止しなくてはならないことであったが、その代わりに、「願至東京乃如約(願はくは東京【洛陽】に至らば乃ち約のごとくせよ)」ということを、黙認せざるを得なかったことが、洛陽の真の回復が史朝羲を破る、762年まで足掛け八年もかかった要因である。
杜甫房?が、粛宗、賀蘭進明、第五gらと反目した大きな問題点の一つである。
〔ただ、758年、洛陽が奪回された時には、洛陽の父老が回?に羅錦萬匹を贈り、略奪を免れたが、759年史朝義に奪い返され、762年に奪還した。〕
房?は諸王か連合して賊軍を包囲し孤立させるという諸王が連合して反乱軍を包囲し、孤立させる。諸王分鎮策を唱え、賀蘭進明・第五gらは粛宗単勝利の方策を掲げ対立した。
粛宗は後者の政策を採用した。粛宗の周りには、利益供与、機体のグループ、張皇后、李輔國等の宦官と政策的バックボーンとしての賀蘭進明、第五gらしかいなかったのである。
房?の経済政策は民衆への直面の負担、奪還後の略奪を回避する方向であったのに対し、賀蘭進明・第五gらは晴極的攻勢を目指したため増脱・貨幣改鋳・塩の専売制、江南の年貢・租庸調の現金化を実施し、民衆の生活が疲弊しても、ひたすら早期に奪還することを政策の柱とした。