房カン関連の紀頌之ブログ集
唐に着手金を支払う余裕がなく、肅宗は仕方なく回?に財物と女性を略奪してもよいという取り決めで援軍を承諾した。このことは、反乱軍の支配地を回復すれば、住民にとって、同時に、凌辱、略奪、収奪の始まりを覚悟しなければいけないことであった。しかし、反乱軍との戦いに住民としては、悪貨によるインフレに加え、回復、解放が悪夢を呼ぶのであるから、どちらの軍に味方したくない状況であった。こうしたこともあって、廣平王李俶、(後の代宗)により長安回復後の略奪は是が非でも阻止しなくてはならないことであったが、その代わりに、「願至東京乃如約(願はくは東京【洛陽】に至らば乃ち約のごとくせよ)」ということを、黙認せざるを得なかったことが、洛陽の真の回復が史朝羲を破る、762年まで足掛け八年もかかった要因である。
杜甫房?が、粛宗、賀蘭進明、第五gらと反目した大きな問題点の一つである。
〔ただ、758年、洛陽が奪回された時には、洛陽の父老が回?に羅錦萬匹を贈り、略奪を免れたが、759年史朝義に奪い返され、762年に奪還した。〕
房?は諸王か連合して賊軍を包囲し孤立させるという諸王が連合して反乱軍を包囲し、孤立させる。諸王分鎮策を唱え、賀蘭進明・第五gらは粛宗単勝利の方策を掲げ対立した。
粛宗は後者の政策を採用した。粛宗の周りには、利益供与、機体のグループ、張皇后、李輔國等の宦官と政策的バックボーンとしての賀蘭進明、第五gらしかいなかったのである。
房?の経済政策は民衆への直面の負担、奪還後の略奪を回避する方向であったのに対し、賀蘭進明・第五gらは晴極的攻勢を目指したため増脱・貨幣改鋳・塩の専売制、江南の年貢・租庸調の現金化を実施し、民衆の生活が疲弊しても、ひたすら早期に奪還することを政策の柱とした。
房?関連のブログ集
757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房?を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房?の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。
左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房?擁護事件」であるといわれるが、実際には、朝廷内における「房?一派」は、肅宗、宦官、賀蘭進明・第五gの連合から朝廷からはじき出されたのである。この事について、杜甫の《乾元元年華州試進士策問五首》の訳註解説の中で詳しく述べているので参考にしてもらいたい。
杜甫と房?について杜甫の詩文は以下のようにある。
●杜甫詩index-13 763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92首
?720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房?刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩
?721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500
?722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500
?廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年?州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052
●杜甫詩index-15 765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63首
?855 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一
?856 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首)
●文
?奉謝口敕放三司推問状
?祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)
○房大尉 宰相房?、大尉はその贈官である、?、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房?を貶されて?州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月廣徳と改元)?州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
764年広徳二年春、?州より成都に赴こうとして房?の墓に別れる情をのべた詩『別房太尉墓』がある。作者の文集中に広徳元年九月に作った「故相国清河房公を祭る文」がある。(全唐文にあるものを別に紹介する。)
763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500
763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(2)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4160 杜甫詩1500-1501-2-1003/250054
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(3)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4165 杜甫詩1500-1501-3-1004/250055
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(4)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4170 杜甫詩1500-1501-4-1005/250056
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(5)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4175 杜甫詩1500-1501-5-1006/250057
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(6)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4180 杜甫詩1500-1501-6-1007/250058
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(8)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-8> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4190 杜甫詩1500-1501-8-1009/250060
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(9)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4195 杜甫詩1500-1501-9-1010/250064
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(10)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-10> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4200 杜甫詩1500-1501-10-1011/250065
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(11)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-11> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4205 杜甫詩1500-1501-11-1012/250066-#1
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(12)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-12> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4210 杜甫詩1500-1501-12-1013/250066-#2
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(13)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-13> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4215 杜甫詩1500-1501-13-1014/2500
756年至徳元から二載 《杜甫と房?房?関連 1-(1)》 杜甫index-5 756年房?関連 1-(1) 杜甫<1601-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4345 杜甫詩1500-1601-1-1040/2500
757年至徳二載 《杜甫と房? 房?関連 1-(2)》 杜甫index-5 756年 房?関連 1-(2) 杜甫<1601-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4350 杜甫詩1500-1601-2-1041/2500
757年至徳二載 《杜甫と房?房?関連 1-(3)》 杜甫index-14 764年房?関連 1-(3) 杜甫<1601-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4355 杜甫詩1500-1601-3-1042/2500
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乾元元年華州試進士策問五首Q-1完全訳注解説
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首Q-1 −(1)》 杜甫index-14 764年(1)Q-1−#1 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4230
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (8) Q-3−#2》 杜甫index-14 764年 (8) Q-3−#2 杜甫<772> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4265
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (14) Q-5−#1》 杜甫index-14 764年 (14)Q-5−#1 杜甫<778> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4295
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (15) Q-5−#2》 杜甫index-14 764年 (15) Q-5−#2 杜甫<779> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4300
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (16) Q-5−#3》 杜甫index-14 764年 (16) Q-5−#3 杜甫<1509-16> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4305
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (17) Q-5−#4》 杜甫index-14 764年 (17) Q-5−#4 杜甫<1509-17> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4310
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (18) Q-5−#5》 杜甫 <1509-18> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4315 杜甫詩1500-1509-18-1034/2500i
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (19) Q-5−#6》 杜甫<1509-19> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4320 杜甫詩1500-1509-19-1035/2500index-21
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (20) Q-5−#7》杜甫<1509-20> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4325 杜甫詩1500-1509-20-1036/2500index-21
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (21) Q-5−#8》 杜甫<1509-21> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4330 杜甫詩1500-1509-21-1037/2500index-21
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (22) Q-5−#9》 杜甫<1509-22> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4335 杜甫詩1500-1509-22-1038/2500index-21
757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首 (23) 全体》 杜甫<1509-T> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500/2500
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首
いまはなくなった宰相房?公の霊枢が?州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。
Index-15765年永泰元年 杜甫54歳 63首
855 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一遠聞房太守,
856 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二
丹?飛飛日,
製作年:765年 永泰元年 54?
卷別: 巻十四 卷二二九 文體: 五言律詩
詩題: 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一
作地點: 雲安(山南東道 / ?州 / 雲安)
及地點: ?州 (山南西道 ?州 ?州) 別名:?、巴城
東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京
陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)
其一
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その一
遠聞房太守,歸葬陸渾山。
はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。
一コ興王后,孤魂久客間。
房?公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。
孔明多故事,安石竟崇班。
房?公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。
他日嘉陵涕,仍霑楚水還。
自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首其の一)
房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。
一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。
孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。
他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。
其二 丹?飛飛日,初傳發?州。風塵終不解,江漢忽同流。
劍動新身匣,書歸故國樓。盡哀知有處,為客恐長休。
『承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首 其一』 現代語訳と訳註
(本文)其一
遠聞房太守,歸葬陸渾山。
一コ興王后,孤魂久客間。
孔明多故事,安石竟崇班。
他日嘉陵涕,仍霑楚水還。
(下し文)
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一)
房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。
一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。
孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。
他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。
(現代語訳)
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)
はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。
房?公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。
房?公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。
自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。
(訳注)
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首 其一
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)
(1)この第一首は房?を思い雲安の地においてふたたび涙をそそぐことをいう。永泰元年雲安にあっての作。
○承聞 「聞くを承く」、聞だけでもよろしいが東を加えたのはさらに尊ぶためである。
○故房相公 没故した元の宰相 房?。
○房大尉 宰相房?、大尉はその贈官である、?、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき肅宗に上皇承諾の使者として霊武に行き宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152
悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153
)によって房?を貶されて?州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)?州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
764年広徳二年春、?州より成都に赴こうとして房?の墓に別れる情をのべた詩。作者の文集中(全唐文)に広徳元年九月に作った祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)には杜甫の房?に対する思いが一番よくわかるものである。
●杜甫詩index-13 763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92首
720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房?刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩
721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500
722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500
○?殯 殯はかりうめ、?はひらく、かりうめの場所をあけてはりだす。廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年?州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052
詩がある。それはかりうめの墓である。
○東都 洛陽。
遠聞房太守,歸葬陸渾山。
はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。
○房大尉 房?は卒して太尉を贈られた。
○陸渾山 河南府嵩県の東北にある山、洛陽から遠くない。籍は河南の人、宰相房融の子で、わかくして学を好み、東平の呂向とともに十年間りくこん山に隠れていたことがある。今没してその山に葬られようとするのである。
・洛陽の陸渾荘にやった継母の盧氏と幼い弟妹たちからの連絡はない。洛陽が奪回されて半年以上もたつのに何の連絡もないのだ。『得舎弟消息』「乱後誰帰得、他郷勝故郷。直為心厄苦、久念与存亡。汝書猶在壁、汝妾已辞房。旧犬知愁恨、垂頭傍我牀。」
得舎弟消息 杜甫詩kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 289
重過何氏五首 其五 杜甫 :kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 72
・王維が藍田の宋之問の別荘を購入している。宗之問の死から30年経過していてほとんど手入れをされていない状態のものであった。王維は二十数年かけて整理し?川集を完成させた。杜甫・王維関連年表参照。しかし王維の?川荘は長安の東南50km藍田にある。
この杜甫の詩の宋之問の別荘は洛陽の北西河南省偃師県にある。高級官僚であるし、武則天は洛陽にほとんどいたので、むしろ偃師県に別荘の利用が多かったかもしれない。宋之問と杜甫の祖父の杜審言と交友があった。
杜甫は、741年開元 二十九年、首陽山の下に室を築き、遠祖当陽君(晋の杜頚)を祭った。また、このとき、陸渾荘を建て,妻を娶る。世話になったおばの死からの喪明けの年とすべてが重なるが、これら一連をやり、李白の後を追って旅に出ることになる。『過宋員外之問舊莊』「宋公舊池館,零落首陽阿。枉道祗從入,吟詩許更過。淹留問耆老,寂寞向山河。更識將軍樹,悲風日暮多。」
過宋員外之問舊莊 杜甫
一コ興王后,孤魂久客間。
房?公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。
〇一徳 儒者の基本、一徳とは守りを変えず、一筋に徳を保つことをいう、ここの意は房?が徳操のあったことをいう。
○興王 中興の天子、粛宗をいう。
○孤魂 地方にさまよって居った房?の精神、魂は生者の魂をさす。
○久客 地方に流寓していた他の人人。
孔明多故事,安石竟崇班。
房?公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。
○孔明 諸葛亮の字、以て房?に此する。後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明。司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。
○故事 晋の陳寿、筍巌らと諸葛亮の故事二十四篇を定めてたてまつった。故事とは過去の行事をいう。諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉gに外に出て身の安全を図るよう薦めた。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』なる書物があったが現存していない。諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。これらを踏まえているということ。
○安石 東晋の謝安の字、これを房?に此する。東晋の名宰相。字は安石。陳郡陽夏(河南省太康県)が本籍の人であるが,会稽(浙江省)上虞(じようぐ)に寓居して,早くから大人物と目されながら王羲之らと風流自適の生活を楽しみ,40歳を過ぎてはじめて出仕した。中央に地位を占めてからは,東晋を奪おうとする桓温(かんおん)の野望をくじき,383年(太元8)には甥の謝玄らを派遣して,南下する前秦苻堅(ふけん)の大軍を?水(ひすい)に破った(?水の戦)。行書にも巧みで教養豊かな彼のおおらかな政治のやり方は,貴族政治の典型とされる。
○克崇班 崇班はたかい位をいう、増が卒して大尉を贈られたのは崇班である、訪安も卒して太博を贈られた、故に相い比する。
他日嘉陵涕,仍霑楚水還。
自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。
○他日 異日、往日の意。
○嘉陵涙 嘉陵は嘉陵江、?州の西漢水をさす、ここは?州の房?の墓にそそいだ涙をさしていう。
○仍 やっぱりということ。
○楚水 楚地の水、?州府より下流の長江のことを楚水といっている。この地より房?の枢舟(びつぎぶね)が経過するはずの処をいう。
○還 ゆくというほどの意であるが、洛陽は杜甫の故郷でもあるゆえにかえるといっている。
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一)
房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。
一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。
孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。
他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。
承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首
いまはなくなった宰相房?公の霊枢が?州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。
Index-15765年永泰元年 杜甫54歳 63首
855 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一遠聞房太守,
856 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二
丹?飛飛日,
製作年:765年 永泰元年 54?
卷別: 巻十四 卷二二九 文體: 五言律詩
詩題: 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一
作地點: 雲安(山南東道 / ?州 / 雲安)
及地點: ?州 (山南西道 ?州 ?州) 別名:?、巴城
東都 (都畿道 河南府 東都) 別名:東京
陸渾山 (都畿道 河南府 陸渾) 別名:方山
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の一)
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首其一
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その一
遠聞房太守,歸葬陸渾山。
はるかに聞くところによると大尉房公はご自身が若いころ10年もの間勉強された故郷の陸渾山へ帰葬されることのようだ。
一コ興王后,孤魂久客間。
房?公は中興の天子の後にあたって不易の一徳をいだいてはいるものの流寓諸客のあいだにさびしい魂を迷わせておられた。
孔明多故事,安石竟崇班。
房?公は諸葛孔明のようにいろいろの故事をもっておられる、謝安石のようにとうとう死後にその位を高められるというようにおなりになった。
他日嘉陵涕,仍霑楚水還。
自分はいつぞやお墓におわかれをするとき嘉陵江に涙をそそいだことであったが、いままたその涙が楚地の水をうるおしてゆくことになった。
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の一)
房大尉の 陸渾の山に帰葬すと遠く聞く。
一徳は興王の后なり、孤魂は久客の間にあり。
孔明は故事多く、安石は 竟に崇班なり。
他日 嘉陵の涙、仍お楚水を霑して還らんとす。
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首其二
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2
丹?飛飛日,初傳發?州。
あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと?州から出発したと伝え聞いた。
風塵終不解,江漢忽同流。
兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。
劍動新身匣,書歸故國樓。
今回運ばれる新しいお棺のなかには故房?公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。
盡哀知有處,為客恐長休。
わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)
丹?【たんちょう】 飛飛たる日、初めて ?州を発すと伝う。
風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。
剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。
尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。
『承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首 其二』
現代語訳と訳註
(本文)
其二
丹?飛飛日,初傳發?州。
風塵終不解,江漢忽同流。
劍動新身匣,書歸故國樓。
盡哀知有處,為客恐長休。
(下し文)
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)
丹?【たんちょう】 飛飛たる日、初めて ?州を発すと伝う。
風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。
剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。
尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん。
(現代語訳)
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)その2
あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと?州から出発したと伝え聞いた。
兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。
今回運ばれる新しいお棺のなかには故房?公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。
わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。
(訳注)
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首 其二
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首の二)
(以前宰相であった房?公の仮埋葬していたのを東都洛陽に還されるということを耳に致したのでこの詩を作った。)
(2)この第二首は洛陽陸渾に帰って哭そうと欲することをいう。
丹?飛飛日,初傳發?州。
あなたの姓名を記したはたがひらひらとひるがえる時、そのはたがこのごろやっと?州から出発したと伝え聞いた。
○丹? 銘?、これは死者の姓名を記したはたをいう。のぼりのような場合もあり。
風塵終不解,江漢忽同流。
兵馬の塵はあくまで解決することにはなっていないし、あなたと江漢の流れを同じくして舟をうかべることは不思議な御縁であると考えるところだ。
○風塵 兵馬の塵。
○江漢 江は長江、漢は西漢水、すなわち嘉陵江。
○同流 房?の枢舟と杜甫自身の舟とが同じ流れにうかぶことをいう。
劍動新身匣,書歸故國樓。
今回運ばれる新しいお棺のなかには故房?公の身にはあなたが使っていた剣がうごきだそうとしている。あなたの書物は故郷の楼にかえるのである。
○剣動 房公の霊、兵乱を平らげようと欲するかのごとくであることをいう。
○新身匣 匣は剣を入れた新しいはこ、身とは公の屍のことをいう。
○書 書籍、公の愛読したもの。この二句は房?の二つの実績、一つは剣で、二つは書ということ。
○故国 故郷の河南をいう。
盡哀知有處,為客恐長休。
わたくしはこのような理不尽な朝廷が何もしない事態で哀哭しつくすべきところがどこであるのかよくわかっている、旅客の身となっているからその場所(陸渾)で正規の葬儀で正規に哭することはできずに終わるのではあるまいかと恐れている。
○尽哀 一哀を尽くして哭すること。一哀は、「礼記」の檀弓上、曾子問篇にみえる。
○有処 処とは陸津山の公の墓地をさすが、杜甫がわざわざなく場所があるといっているのは、朝廷が763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されており、たしかに途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月広徳と改元)?州の僧舎に卒したとはいえ、本葬儀に対して朝廷がかかわるべきである。太尉を贈られたのであれば朝廷がかかわる必要があるということをいうのである。作者の旧荘もまた陸渾にあるゆえに陸渾の地と解するのは単純すぎる。763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500
を全13回にわたって通訳しているので参照されたい。
○長休 休は休止である、『禮記』五経典に『易経』『書経』『詩経』『儀礼』『春秋』がある。そのなかの『儀礼(ぎらい)』は古代中国の官吏階級の通過儀礼である、冠礼、婚礼、喪礼、外交儀礼などを細かく規定したもので、中国の文化の規範としての役割を担ってきたのであること、したがってここで哭せんと欲することが『儀礼』にのとったものでなければ泛ばれないというものである。そのまま哭することを得ずしてやむことをいう。房?の名誉の為にも朝廷は再考ねがいたいということを思っているのだ。
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首 其の二)
丹?【たんちょう】 飛飛たる日、初めて ?州を発すと伝う。
風塵 終に解けず、江漢 忽ち流れを同じくす。
剣は動く 親身の匣、書は帰る故国の楼。
尽哀すべき 処有りるを知り、客と為って恐らくは長く休せん
757年至徳二載、杜甫は蘆子関で捕縛され、安禄山の叛軍に占領されていた長安に送られた。杜甫は軟禁の長安から命がけで脱出し、鳳翔の行在所に駆けつけた。その功によって粛宗に拝謁し、左拾遺(従八品上)の官を授けられた。必ずしも高い官職ではなかったが、その職掌は皇帝の政治の誤りを正すことにあり、同官を拝命した喜びは、杜甫にとって大きいものだった。ところが間もなく、杜甫は宰相房?を弁護して粛宗の逆鱗に触れた。辛くも罪を問われることは免れたが、杜甫は徹底して朝廷内で疎外され、仕事に関して嫌気を感じていた。翌年には房?の一党とされて、華州司功参軍に出される。杜甫が官を辞することはこの時期に到る詩には明確にあらわれている。そして759年乾元二年秋初、杜甫は粛宗の時代では、一縷の希望もないと、官職を捨てて秦州へと旅立つ。半官半隠の理想と人生は、捨てきれないものの後半生の漂泊はここに始まった。
左拾遺の官を拝命して、希望と使命感を抱いた杜甫が、一転して挫折と失望を味わうこととなった原因が、いわゆる「房?擁護事件」であるといわれるが、実際には、朝廷内における「房?一派」は、肅宗、宦官、賀蘭進明・第五gの連合から朝廷からはじき出されたのである。この事について、杜甫の《乾元元年華州試進士策問五首》の訳註解説の中で詳しく述べているので参考にしてもらいたい。
杜甫と房?について杜甫の詩文は以下のようにある。
●杜甫詩index-13 763年寶應二年 杜甫52歳 蜀中転々 92首
?720 《陪王漢州留杜綿州泛房公西湖【案:房?刺漢州時所鑿。】》 蜀中転々 杜甫 <627> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3445 杜甫詩1000-627-883/1500五言律詩
?721 《舟前小鵝兒〔自注:漢州城西北角官池作,官池即房公湖。〕》 蜀中転々 杜甫 <628> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3450 杜甫詩1000-628-884/1500
?722 《得房公池鵝》 蜀中転々 杜甫 <629> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3455 杜甫詩1000-629-885/1500
?廣徳2年764-88 《別房太尉墓》 杜甫index-14 764年?州<764> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4150 杜甫詩1500-764-1001/250052
●杜甫詩index-15 765年永泰元年 54歳 正月幕府を辞す 63首
?855 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一
?856 承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二
(故房相公靈?,?州より殯を?き 東都に歸葬すと承聞して作有り,二首)
●文
?奉謝口敕放三司推問状
?祭故相国清河房公文(故の相国清河房公を祭る文)
○房大尉 宰相房?、大尉はその贈官である、?、字は次律、玄宗が蜀に幸したとき宰相に拝されたが、陳涛斜の敗戦(悲陳陶 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 152 悲青坂 杜甫 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 153)によって房?を貶されて?州刺史となった。上元元年礼部尚書に改められ、ついで出されて晋州刺史とされ、八月漢州刺史に改められた。763年寶應二年四月特進・刑部尚書に拝されたが、途中で病にかかり、763年廣徳元年八月(宝応二年七月廣徳と改元)?州の僧舎に卒した。六十七歳、太尉を贈られた。
764年広徳二年春、?州より成都に赴こうとして房?の墓に別れる情をのべた詩『別房太尉墓』がある。作者の文集中に広徳元年九月に作った「故相国清河房公を祭る文」がある。(全唐文にあるものを別に紹介する。)
763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500
763年廣徳元年1501 《祭故相國清河房公文-(1)》 杜甫index-13 763年祭故相國清河房公文-(1) 杜甫<765> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4155 杜甫詩1500-765-1002/2500
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(2)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4160 杜甫詩1500-1501-2-1003/250054
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(3)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4165 杜甫詩1500-1501-3-1004/250055
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(4)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4170 杜甫詩1500-1501-4-1005/250056
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(5)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4175 杜甫詩1500-1501-5-1006/250057
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(6)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4180 杜甫詩1500-1501-6-1007/250058
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(7)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4185 杜甫詩1500-1501-7-1008/250059
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(8)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-8> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4190 杜甫詩1500-1501-8-1009/250060
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(9)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4195 杜甫詩1500-1501-9-1010/250064
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(10)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-10> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4200 杜甫詩1500-1501-10-1011/250065
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(11)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-11> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4205 杜甫詩1500-1501-11-1012/250066-#1
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(12)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-12> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4210 杜甫詩1500-1501-12-1013/250066-#2
廣徳元年763年 《祭故相國清河房公文-(13)》 杜甫index-13 763年 杜甫<1501-13> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4215 杜甫詩1500-1501-13-1014/2500
756年至徳元から二載 《杜甫と房?房?関連 1-(1)》 杜甫index-5 756年房?関連 1-(1) 杜甫<1601-1> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4345 杜甫詩1500-1601-1-1040/2500
757年至徳二載 《杜甫と房? 房?関連 1-(2)》 杜甫index-5 756年 房?関連 1-(2) 杜甫<1601-2> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4350 杜甫詩1500-1601-2-1041/2500
757年至徳二載 《杜甫と房?房?関連 1-(3)》 杜甫index-14 764年房?関連 1-(3) 杜甫<1601-3> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4355 杜甫詩1500-1601-3-1042/2500
757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(4)》 杜甫 房?関連 1-(4) 杜甫<1502-4> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4360 杜甫詩1500-1502-4-1043/2500
757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(5)》 杜甫 房?関連 1-(5) 杜甫<1502-5> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4365 杜甫詩1500-1502-5-1044/2500
757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(6)》 杜甫index-14 764年 房?関連 1-(6) 杜甫<1502-6> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4370 杜甫詩1500-1502-6-1045/2500
757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(7)》 杜甫index-14 764年 房?関連 1-(7) 杜甫<1502-7> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4375 杜甫詩1500-1502-7-1046/2500
757年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(8)》 杜甫index-14 764年 房?関連 1-(8) 杜甫<1502-8> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4380 杜甫詩1500-1502-8-1047/2500
758年至徳二載 《奉謝口敕放三司推問? 房?関連 1-(9)》 杜甫index-14 764年 房?関連 1-(9) 杜甫<1502-9> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4385 杜甫詩1500-1502-9-1048/2500
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乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (9) Q-3−#3》 杜甫index-14 764年 (9) Q-3−#3 杜甫<773> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4270 杜甫詩1500-773-1025/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (10) Q-3−#4》 杜甫index-14 764年 (10) Q-3−#4 杜甫<774> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4275 杜甫詩1500-774-1026/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (11) Q-4−#1》 杜甫index-14 764年 (11) Q-4−#1 杜甫<775> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4280 杜甫詩1500-775-1027/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (12) Q-4−#2》 杜甫index-14 764年 (12) Q-4−#2 杜甫<776> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4285 杜甫詩1500-776-1028/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (13) Q-4−#3》 杜甫index-14 764年 (13) Q-4−#3 杜甫<777> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4290 杜甫詩1500-777-1029/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (14) Q-5−#1》 杜甫index-14 764年 (14) Q-5−#1 杜甫<778> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4295 杜甫詩1500-778-1030/2500index-21
乾元元年758 《乾元元年華州試進士策問五首 (15) Q-5−#2》 杜甫index-14 764年 (15) Q-5−#2 杜甫<779> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4300 杜甫詩1500-779-1031/2500index-21
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (16) Q-5−#3》 杜甫index-14 764年 (16) Q-5−#3 杜甫<1509-16> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4305 杜甫詩1500-1509-16-1032/2500index-21
乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (17) Q-5−#4》 杜甫index-14 764年 (17) Q-5−#4 杜甫<1509-17> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4310 杜甫詩1500-1509-17-1033/2500index-21
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乾元元年758年 《乾元元年華州試進士策問五首 (19) Q-5−#6》 杜甫index-14 764年 (19) Q-5−#6 杜甫<1509-19> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4320 杜甫詩1500-1509-19-1035/2500index-21
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757年至徳二載 《乾元元年華州試進士策問五首 (23) 全体》 杜甫<1509-T> 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4340 杜甫詩1500/2500
承聞故房相公靈?自?州?殯歸葬東都有作 二首
いまはなくなった宰相房?公の霊枢が?州より仮り埋めからだして洛陽の方へ帰葬されるということをきいてよんだ詩。
Index-15 |
765年永泰元年杜甫54歳 |
63首 |
855 |
承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之一 |
遠聞房太守, |
856 |
承聞故房相公靈?,自?州?殯歸葬東都有作,二首之二 |
丹?飛飛日, |